和字正濫鈔

『和字正濫鈔』（わじしょうらんしょう）は、江戸時代中期の国学者である契沖が著した語学書であり、日本語の仮名遣いに関する重要な文献です。この書物は、個々の語彙の仮名遣いの根拠を詳細に示し、いわゆる歴史的仮名遣いへの道を開いたとされています。文献によっては「和字正濫抄」と表記されることもありますが、ここでは版本の表記に従っています。

概要

『和字正濫鈔』は、元禄6年（1693年）に成立し、その2年後の元禄8年（1695年）に刊行されました。全5巻5冊から構成されており、契沖が『万葉代匠記』の撰述から間もない頃に着手したと考えられています。書名の「和字の濫れたるを正す」という言葉が示すように、本書は当時の仮名遣いの乱れを正すことを目的としていました。特に、定家仮名遣いに多くの誤りが見られると批判し、上代の文献に基づいた仮名遣いを提唱しました。

内容

本書の内容は、大きく分けて総論と各論に分けることができます。

巻1：総論
巻1は全体の理念を示す総論にあたり、いくつかの整理された箇条書きによって構成されています。ここでは、定家仮名遣いに対する批判のほか、五十音や「いろは歌」などについての考察が展開されています。また、真言密教の言語観に基づいた理論的な展開も特徴的です。契沖は、上代の『古事記』『日本書紀』『万葉集』といった文献や、中古の『古今和歌集』『先代旧事本紀』などを、仮名遣いの規範として重視する復古主義的な立場を明確に示しています。

巻2以降：各論
巻2以降では、分類ごとに正しい仮名遣いが示されています。その際、出典を明記し、語釈などの注記も加えられています。特に、『和名類聚抄』からの引用が目立ちます。巻5には、文字や音韻に関する雑説が収録されています。注目すべき点として、本書が和語だけでなく漢語も対象としており、両者を区別することなく取り上げていることが挙げられます。

受容

『和字正濫鈔』における契沖の主張は、当時の国学者たちに大きな影響を与えました。しかし、すぐに受け入れられたわけではなく、橘成員が元禄9年（1696年）に『倭字古今通例全書』で反論したのをはじめとして、多くの批判や議論を呼びました。これに対し、契沖は元禄10年（1697年）に『和字正濫通妨抄』、元禄11年（1698年）に『和字正濫要略』を著し、自身の立場を明確にしました。

本書によって根拠づけられた仮名遣いは「契沖仮名遣」と呼ばれ、その後の国学者たちから支持を集めました。楫取魚彦の『古言梯』のように、契沖の説を修正し発展させたものも現れました。また、本居宣長は、当初は定家仮名遣いを用いていましたが、明和4年（1767年）頃から契沖仮名遣いに変わり始め、明和5年（1768年）頃には完全に契沖仮名遣いに統一しました。

こうした流れの中で、明治時代に入ると、契沖仮名遣いが教科書などに採用され、いわゆる歴史的仮名遣いとして規範化されました。しかし、昭和21年（1946年）にGHQの民主化政策の一環として国語改革が執行されると、歴史的仮名遣いは古典を除いて公的な場から姿を消すことになりました。それでもなお、歴史的仮名遣いを支持する人々も少なくありません。

翻刻

『和字正濫鈔』は、以下の全集などに翻刻されています。

『契沖全集7：語學及歌集』朝日新聞社、1927年1月。
『國語學大系9：仮名遣1』厚生閣、1939年。
『契沖全集10：語學』岩波書店、1973年10月。

参考文献

本書の研究に役立つ主な参考文献を以下に示します。

山田孝雄『假名遣の歴史』寶文館、1929年7月。
木枝増一『假名遣研究史』賛精社、1933年6月。
保科孝一『和字正濫抄と假名遣問題』日本放送出版協会、1942年5月。
永山勇『仮名づかい』笠間書院〈笠間選書〉、1977年2月。
築島裕『仮名』中央公論社〈日本語の世界5〉、1981年4月。
築島裕『歴史的仮名遣い：その成立と特徴』中央公論社〈中公新書〉、1986年7月。
土屋道雄『國語問題論爭史』玉川大学出版部、2005年1月。
釘貫亨『近世仮名遣い論の研究：五十音図と古代日本語音声の発見』名古屋大学出版会、2007年10月。
白石良夫『かなづかい入門：歴史的仮名遣vs現代仮名遣』平凡社〈平凡社新書〉、2008年6月。
今野真二『かなづかいの歴史：日本語を書くということ』中央公論新社〈中公新書〉、2014年2月。
今野真二『仮名遣書論攷』和泉書院〈研究叢書469〉、2016年2月。
* 今野真二『日本とは何か：日本語の始源の姿を追った国学者たち』みすず書房、2023年5月。


これらの文献は、『和字正濫鈔』の成立背景や影響、仮名遣い研究の歴史を深く理解する上で非常に有用です。

もう一度検索