増川宏一

増川宏一：日本の遊戯史研究を牽引した異才

増川宏一（1930年-2021年）は、日本の遊戯史研究において、その類まれな功績から、第一人者として称えられる人物です。旧制甲南高等学校（現甲南大学の前身）卒業後、大学には進学せず、独自の道を歩み、在野の研究者として遊戯史研究に生涯を捧げました。その業績は、既存の研究を批判的に検証し、新たな視点を取り入れることで、遊戯史研究に大きな影響を与えました。

若き日の経験と思想

長崎県に生まれた増川氏は、旧制中学時代、先輩から「我が校の本分は遊ぶことである」との言葉をかけられたことがきっかけとなり、盤上遊戯の世界に深く関わるようになったと語っています。その後、朝鮮戦争中の1950年には反戦ビラを配布したとして思想犯として逮捕され、神戸刑務所に収監されました。獄中では、囚人たちが目隠し将棋をする様子を目撃し、将棋の腕を磨くようになったという逸話も残っています。この経験は、彼の遊戯に対する視点に大きな影響を与えたと考えられます。

賭博遊戯史研究への没頭

30歳で勤務先を退社した増川氏は、賭博を含む遊戯史の研究に専念しました。その探究心は国内にとどまらず、1973年にはチェス史の研究のため、ベルリンのペルガモン博物館研究所を訪問するなど、国際的な視野も持っていました。

彼の研究活動は高く評価され、2004年には日本将棋連盟から「将棋の日」感謝状を授与、2010年には将棋歴史文化アドバイザーに就任、2014年には第21回大山康晴賞を受賞するなど数々の栄誉に輝きました。2005年には第17回将棋ペンクラブ大賞特別賞を受賞し、遊戯史研究家の第1号と称されるまでになりました。

従来の遊戯史研究への批判的アプローチ

増川氏の研究の特徴は、既存の囲碁史や将棋史への批判的な視点にあります。江戸時代の家元などの誇張された記述を基にした従来の史観に対し、信頼性の高い同時代の史料を基に、独自に検証を進めました。その研究は、ほぼ独力で進められたものであり、彼の徹底的な探究心と、綿密な史料分析能力の高さを示しています。

大橋家文書による新事実の解明

特に、江戸時代の将棋の家元三家のうち最上位であった大橋家に伝わる文書（大橋家文書）の研究・解説は、大きな成果を挙げました。この研究によって、「将棋所」という称号が、将棋の名家が名乗っていたに過ぎず、幕府公認の役職ではなかったこと、また名家に与えられた扶持は生活していくには不十分であり、多くの家元が副業で生計を立てていたことが明らかになりました。さらに、日本将棋連盟が慶長17年（1612年）に初代大橋宗桂が初代名人・将棋所となったとする説に対し、増川氏は当時「名人」「将棋所」の名称自体が存在していなかったと指摘しました。

将棋の南方伝来ルート論争

増川氏は、将棋の伝来ルートについて、東南アジア経由説を唱えました。チャトランガが東南アジアを経て中国南方へ伝わり、船員によって漢字駒に改良されたものが日本に伝わったという説です。また、シャンチーとは異なる系統であり、タイの将棋であるマークルックと日本の将棋が同一系統であると主張しました。

当初、伝来時期を7世紀頃、担い手を庶民と推定していましたが、平安時代の駒の発掘により、10～11世紀頃、担い手は識字層であったと修正しました。この説は、中国伝来説を唱える将棋棋士の木村義徳氏と激しい論争を巻き起こしました。木村氏は6世紀の中国大陸経由説を主張し、両者の間には深刻な対立が生じ、謝罪広告が掲載される事態にまで発展しました。

世界における将棋の起源に関する考察

世界における将棋の起源は、インドのチャトランガであるとされていますが、4人制と2人制のどちらが先に発生したかについては、長年の論争がありました。増川氏は、1970年代には4人制起源説を主張していましたが、後年の研究を経て、2006年には2人制起源説を支持するに至りました。

多岐にわたる著作活動

増川氏は、法政大学出版局「ものと人間の文化史」シリーズをはじめ、多数の著作を発表しました。そのテーマは将棋、チェス、囲碁、賭博、すごろくなど多岐に渡り、日本の遊戯文化を多角的に考察した、多くの貴重な研究成果を残しています。これらの著作は、日本の遊戯史研究において、必読書として広く認識されています。彼の研究は、単なる遊戯の歴史にとどまらず、社会や文化、歴史への深い洞察に満ちており、現代の研究者たちにも大きな影響を与え続けています。

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