天香久山

奈良県橿原市にそびえる天香久山（あまのかぐやま、あめのかぐやま）、あるいは単に香久山（かぐやま）は、古代より人々の営みと深く関わってきた特別な存在です。畝傍山、耳成山と並び称される大和三山の一つであり、その標高は152.4メートルと、三山の中では二番目に位置します。他の二山が独立した姿を見せるのに対し、天香久山は多武峰から連なる竜門山地の末端に位置するという地形的な特徴を持っています。

この山は、国の歴史的風土特別保存地区および国の名勝に指定されており、その歴史的・文化的な価値が広く認められています。

神話と成り立ち

太古の時代、天香久山は現在の多武峰から続く広大な山裾の一部だったと考えられています。長い年月の浸食を経て、その一部が現在の姿で残ったとされています。山容はむしろ小高い丘陵といった趣ですが、古代の人々からは「天」という尊称を冠されるほど神聖な山として崇敬されていました。

興味深い起源伝承も伝えられています。『伊予国風土記』の逸文には、天から二つに分かれて落ちた山の一つが伊予国（現在の愛媛県）の天山となり、もう一つが大和国の天加具山になったと記されています。また、『阿波国風土記』の逸文には、阿波国（現在の徳島県）に落ちた巨大な「アマノモト（またはアマノリト）山」が砕け、その一部が大和に降り立って天香具山と呼ばれるようになったという伝承もあるとされています。

信仰と歴史的意義

藤原京の東に位置することから、太陽信仰との関連も指摘されています。山頂には國常立神社があり、主祭神として國常立命が祀られ、小さな祠には高靇神も祀られています。山の北麓には、占いを司る櫛真智命神を祀る天香山神社があり、その境内の波波枷の木は古来より占いに用いられてきたと伝えられています。南麓には、天照大神の岩戸隠れの伝承地とされる岩穴や巨石を神体とする天岩戸神社が鎮座しています。

天香久山はまた、畝傍山と共に神事に用いられる陶土の重要な採集地としても知られていました。山からは「赤埴」と「白埴」と呼ばれる二種類の土が得られ、特に赤埴は山頂の斑れい岩が風化したものと考えられています。

歴史上の重要な出来事との関わりも深く、神武天皇が大和を平定する際に、天香久山の土で土器を作り神を祀ることで戦わずして目的を果たしたという伝承や、崇神天皇の時代に謀反を企てた武埴安彦命の妻が、反乱前にこの山の土を得ようとしたという話が残されています。これは、天香久山を掌握することが大和の支配に繋がるという古代の認識を示唆しています。さらに、天照大神が岩戸に隠れた際、再び世に出てもらうために天香久山の真榊が必要とされたという神話も伝えられており、神事や祭祀に必要な物資を供給する山という側面も持っていました。

現代においては、山の東側に県立「万葉の森」が整備され、南東部には広大な香久山公園も設けられ、人々の憩いの場となっています。

多様な名称と表記

天香久山は、文献や時代、用途によって様々な名称で記されてきました。「天香久山」「天香具山」のように「天」を冠するものと、「香久山」「香具山」のように冠しないものがあります。国土地理院の地形図では「天香久山」が採用されていますが、国の名勝としての登録名称は「香具山」です。地元である橿原市では地区名に「香久山」を用いており、JR桜井線の駅名も香久山駅となっています。神話の中では、「天香山」という表記も見られます。

文学作品への登場

天香久山は、古くから多くの歌に詠まれてきました。特に『万葉集』には頻繁に登場し、単独で詠まれた歌が9首、他の歌と合わせて詠まれたものが合計13首あります。万葉集の中での山の表記も、「香具山」「香山」「香来山」「高山」「芳来山」「芳来山」「芳山」などと一定していません。

代表的な歌として、以下が挙げられます。

舒明天皇の国見歌：

山常庭村山有等取與呂布天乃香具山騰立國見乎為者國原波煙立龍海原波加萬目立多都怜𪫧國曽蜻嶋八間跡能國者

（大和には　群山あれど　とりよろふ　天の香具山　登り立ち　国見をすれば　国原は　煙り立ち立つ　海原は　かまめ立ち立つ　うまし国ぞ　あきづ島　大和の国は）

中大兄皇子（後の天智天皇）の歌：

高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉

（香具山は　畝傍ををしと　耳梨と　相争ひき　神代より　かくにあるらし　古（いにしへ）も　然（しか）にあれこそ　うつせみも　妻をあらそふらしき）

持統天皇の歌：

春過ぎて　夏来たるらし　白たへの　衣干したり　天香具山

大伴旅人の歌：

わすれ草　わが紐に付く　香具山の　故（ふ）りにし里を　忘れむがため

これらの歌からも、天香久山が古来より人々の心に深く刻まれ、季節の移ろいや人間模様、故郷への思いなど、様々な情景や感情と結びつけられて詠まれてきたことが伺えます。

膳氏との関わり

天香久山周辺は、古代氏族である膳氏（かしわでうじ）の本拠地であったとされています。聖徳太子の妃の一人である膳部菩岐々美郎女（かしわでのほききみいらつめ）は膳氏の出身であり、この地がその生家であったとも伝えられています。現在も、山の北側には膳夫町（かしわてちょう）という地名が残されており、古代からの繋がりを今に伝えています。

このように、天香久山は単なる山ではなく、古代の神話、信仰、歴史、文学、そして人々の暮らしと深く結びついた、大和の国の象徴的な存在と言えるでしょう。

参考資料：奈良県高等学校教科等研究会歴史部会編『奈良県の歴史散歩下奈良南部』山川出版社、2007年

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