小ロシア

小ロシア（小ルーシ）とは

小ロシア（しょうロシア）または小ルーシ（しょうルーシ、ギリシア語: Μικρά Ρωσία）は、東欧の地名であり、歴史的にはルーシ人の本土を指す用語として用いられ、ウクライナの旧称の一つでもあります。この言葉は14世紀にギリシャ正教会の行政概念として登場しましたが、17世紀以降はロシア帝国の政治的な概念へと変貌を遂げました。20世紀初頭からは、ウクライナに対する蔑称として用いられることもあります。

小ロシアの起源と変遷

「小ロシア」という用語は、14世紀にギリシャの聖職者によって作られたとされています。13世紀半ばにキエフ大公国がモンゴル帝国によって滅ぼされた後、その大公国の後継としてハールィチ・ヴォルィーニ大公国（南西ルーシ）とウラジーミル・スーズダリ大公国（北東ルーシ）が誕生しました。この状況下で、コンスタンディヌーポリ総主教庁は、従来のキエフ府主教区を分割する必要に迫られました。そこで、ギリシャの聖職者は古代ギリシャの「小ヘラス」と「大ヘラス」の地域的区分を参考に、南西ルーシを「小ロシア」、北東ルーシを「大ロシア」と呼ぶようになったのです。

1303年、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の君主の依頼により、コンスタンディヌーポリ総主教庁はキエフ府主教区を分割し、北東ルーシの地域に大ロシア府主教区、南西ルーシの地域に小ロシア府主教区を創立しました。

当初、「小ロシア」は教会用語として使用され、世俗の外交文書では用いられることはありませんでした。しかし、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国でリューリク朝が断絶し、ピャスト朝に変わると、1335年にユーリイ2世が「全小ルーシの公」という称号を用いたことが初めての例となりました。その後、1340年代にハールィチ・ヴォルィーニ大公国がポーランド王国とリトアニア大公国の間に分割されると、小ロシア府主教区も廃止され、「小ロシア」という用語自体も世俗と教会の両方から姿を消しました。

小ロシア概念の復活と政治的利用

17世紀初頭、「小ロシア」という概念は正教会のルーシ系聖職者の活動によって再び用いられるようになります。1458年にモスクワの正教会が独立したことに伴い、コンスタンディヌーポリ総主教庁は新たなキエフ府主教区を創立し、ポーランド・リトアニア共和国に居住する正教徒のルーシ人の統制を任せました。このキエフ府主教区は1596年のブレスト合同とルーシ帰一教会の創立によって一時的に解消されましたが、1620年に復活しました。この府主教区復活運動において、正教会の聖職者は大きな役割を果たし、正教徒の在住地域を「小ロシア」と呼び始め、ポーランド・リトアニア共和国における正教会の団結力と正教徒の自意識の強化を図りました。

1648年にポーランド・リトアニア共和国でフメリニツキーの乱が勃発し、事実上ウクライナ・コサックのヘーチマン国家が誕生すると、その国家の外交に携わったルーシ系聖職者はヘーチマン国家を「小ロシア」と呼び、「小ロシア」を国号の同義語としてモスクワ大公国との外交文書で使用しました。聖職者が「小ロシア」を広めた結果、1654年にペレヤスラウ条約によってヘーチマン国家がモスクワ大公国の保護国になると、モスクワのツァーリは自らの称号を「ツァーリならびに大公、全大・小・白ロシアの主」と改め、ヘーチマン国家との外交関係を司る小ロシア省が設置されました。この頃から、ウクライナ・コサックの国家の住民は「小ロシア人」、彼らの言語は「小ロシア語」と呼ばれるようになりました。

1667年にヘーチマン国家がドニプロ川を境にモスクワとポーランドの間に分割されると、「小ロシア」という地名の範囲はモスクワの支配下に入ったヘーチマン国家の左岸、つまり左岸ウクライナまで縮小しました。1722年には当地のコサックのヘーチマン政府が廃止され、1734年までにロシア政府の小ロシア委員会がコサックの統制を行いました。その後、ヘーチマン政府は一時的に回復しましたが、1764年に最終的に廃止されることとなりました。これにより、ヘーチマン国家は消滅し、その代わりに小ロシア統監府が置かれ、左岸ウクライナの統治を行いました。1781年にはエカチェリーナ2世の命令によりウクライナ・コサックの連隊制が廃止され、コサック身分が抹消され、コサックの領内で3つの代官地が設置されました。これらの代官地は1796年に小ロシア県として統一されましたが、1802年にはチェルニゴフ県とポルタヴァ県に分割されました。

19世紀以降の意味の変化と現代における位置づけ

18世紀末のポーランド分割によってロシア帝国の領土が西方へ拡大すると、「小ロシア」の範囲はウクライナ人が居住する右岸ウクライナとヴォルィーニまで広がりました。19世紀初頭からは、「小ロシア」にスロボダ・ウクライナの地域も含まれるようになりました。こうして、19世紀初頭以降、「小ロシア」はウクライナの西部・北部・東部・中部を指す地名となり、政治・経済・学術・文化の様々な分野で広く用いられるようになりました。「小ロシア」の他に、「南ロシア」や「南西ロシア」という言葉もウクライナ人の在住地域を示す用語として存在しました。

しかし、19世紀後半から、ウクライナの知識人や啓蒙家はウクライナ民族運動を起こし、「小ロシア」の代わりに民間で親しまれていた「ウクライナ」という用語を頻繁に使用し始めました。これは、「小ロシア」の意味が変化したことが理由として考えられます。本来、「小ロシア」は「ルーシの本土」を意味していましたが、18世紀末以降はロシア帝国の辺境地としてウクライナの地方性を強調する「小さなロシア」という意味合いに変化していきました。20世紀初頭には、「小ロシア」はウクライナの知識人によって蔑称として認識されるようになり、マスコミ、文学、学問、政治などの分野において「ウクライナ」という言葉に取って代わられました。

20世紀に存在したウクライナ人民共和国やウクライナ・ソビエト社会主義共和国においては、「小ロシア」は否定的な意味を持つ用語として公式な使用から削除されました。現代のウクライナでも、「小ロシア」は否定的な意味合いを維持しています。しかし、ウラジーミル・プーチン政権の関係者や、政権傘下のメディア、アカデミック、極右勢力の間では、現在のウクライナ国家の正統性を否定するために「小ロシア」という用語が用いられることがあります。

小ロシア主義について

「小ロシア」の地名に由来する「小ロシア主義」（ウクライナ語: Малоросійство）とは、ウクライナ人の間に見られるロシアに対する劣等感を指す社会的・心理的現象です。この現象は、ウクライナが長年にわたってロシアに支配され、政治、社会、学問、文化などの多方面において抑圧されてきたことに起因すると考えられます。小ロシア主義の信奉者は、ウクライナ人でありながら、ウクライナの政治、社会、文化、伝統に対し偏見や敵意を抱き、その発展の必要性を否定する一方で、ロシアの社会を崇拝し、ロシアの文化を優先します。彼らはウクライナをロシアの政治文化圏の不可欠な一部または地方として捉えています。

19世紀のウクライナ知識人ムィハーイロ・ドラホマーノウは、小ロシア主義者をロシアの文化的影響によってウクライナの国民性が屈折され、ロシア化したウクライナ人と定義しました。また、20世紀前半のウクライナ政治論者ヴヤチェスラーウ・ルィプィーンシクィイは、小ロシア主義を「無国の民の病」・「奴隷の心理」であると述べています。

小ロシア主義の反対語としては、マゼッパ主義という用語が用いられることがあります。

小ロシア主義の信奉者としては、コサックの為政者であるイヴァン・イースクラとヴァスィーリ・コチュベーイ、作家のニコライ・ゴーゴリ、政治家のパウロー・スコロパードシクィイ、学者のウラジーミル・ベルナドスキー、技術者のセルゲイ・コロリョフなどが挙げられます。

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