小野アンナ

小野アンナ：日本のヴァイオリン界を育てたロシアの情熱

アンナ・ディミトリエヴナ・ブブノワ、のちの小野アンナは、1890年3月14日にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに生を受けました。彼女の生家は父がロシア帝国官僚、母が貴族出身という背景を持ち、母方には大詩人アレクサンドル・プーシキンの血筋も引いています。特に語学と音楽に秀でた母親の影響を受け、ブブノワ家の三姉妹は皆芸術の道へ進みました。長姉マリヤはピアニスト、次姉ワルワーラは美術家として活躍しました。

幼少期、アンナは5歳から母親からピアノの手ほどきを受けましたが、10歳でヴァイオリンに転向しました。ザイツ、ヴァンツェコワといった師につき、1904年にはペテルブルク音楽院に入学してホヴハンネス・ナルバンジャンに師事。さらに1908年から1913年にかけて、伝説的なヴァイオリニスト教育者であるレオポルト・アウアーのもとで学び、1911年に音楽院を卒業しました。

1913年にフリーアーチストの称号を得た後、ペトログラード（サンクトペテルブルクから改称）で、同地に留学していた日本人、小野俊一と出会います。彼はロシア文学、生物学、社会運動など幅広い分野で活動する人物でした。二人は革命さなかの1917年5月に結婚し、翌1918年には激動のロシアを離れて日本の東京へと渡りました。

東京での生活は、正教徒であった彼女がニコライ堂に通うことから始まりました。1919年に長男の俊太郎を出産すると、彼に早期音楽教育を施しました。しかし、1933年に俊太郎が少年期に盲腸炎で急逝したことは、アンナと夫・俊一の関係に影を落とし、1935年には協議離婚に至りました。

夫との別離後も、アンナは「小野アンナ」の名義で日本に留まり、ヴァイオリン教師としての活動を続けました。その教育への情熱は衰えることなく、1943年には毎日音楽コンクールの審査員を務めるなど、日本の音楽界に深く関わっていきます。1945年4月には、戦争の激化に伴い軽井沢への強制疎開を経験し、姉ワルワーラと共に厳しい戦中・戦後初期を過ごしました。

戦後、1946年には武蔵野音楽大学の教授に就任し、後進の指導にあたります。請われるままに桐朋学園の「子どものための音楽教室」、高等学校音楽科、短期大学でも教鞭を執り、日本の音楽教育の基盤作りに貢献しました。こうした長年の功績が認められ、1959年には音楽教育への貢献により勲四等瑞宝章を受章しています。

小野アンナは自らを「教育者」と強く認識しており、その信念から演奏の録音は一切残しませんでした。そのため、彼女自身の演奏がどのようなものであったかは、伝聞を除いてほとんど知られていません。しかし、教育者としての彼女の功績は計り知れません。1961年に出版された『ヴァイオリン音階教本』は、その理論的かつ体系的な内容から、日本のヴァイオリン学習者にとって今なお愛用される標準的な教本の一つとなっています。

彼女は「日本人女性ヴァイオリニストの生みの親」とも称され、戦前には諏訪根自子、巖本真理といった名手を、戦後には前橋汀子、潮田益子などの著名なヴァイオリニストを育てました。また、男性ヴァイオリニストでは浦川宜也、石川希峰らを、さらには商業音楽作曲家の三木鶏郎など、幅広い分野で活躍する多様な人材を輩出しています。小野アンナの門下からは、音楽大学の教授や指揮者として日本の音楽界を牽引する人物も多く生まれています。

1958年に姉のワルワーラがソ連へ帰国したのに続き、アンナも1960年にソ連へ渡りました。アブハジアのスフミ音楽院でヴァイオリン科教授に就任し、晩年も教育活動を続けました。1979年5月8日、90歳を目前にしてスフミにて永眠しました。

没後もその功績は称えられ、2016年5月15日には、東京の多磨霊園において、姉ワルワーラ・ブブノワと共に二人の業績を讃える記念碑が除幕され、ニコライ堂の司祭によって成聖されました。

離婚後も、ブブノワ姉妹と元夫・小野俊一の小野家との間には交流が続きました。小野家は俊一の姪にオノ・ヨーコ、後妻との間に北海道大学教授の小野有五を輩出するなど、財界・学界に広がりを持つ一族です。アンナを通じて、ピアニストであるレオ・シロタの家族とも親交を深めたと言われています。姉ワルワーラもまた、ロシア文学教師や挿絵画家として、小野俊一と共に活動した時期がありました。

小野アンナは、激動の時代に祖国を離れ、異国日本でその生涯の多くをヴァイオリン教育に捧げた人物です。演奏家としての記録は少ないものの、その理論的な指導法と情熱によって、日本のヴァイオリン界に計り知れない足跡を残しました。多くの優れた音楽家を育て上げた功績は、今なお日本の音楽史において高く評価されています。

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