愛染明王

愛染明王（あいぜんみょうおう）

愛染明王は、仏教、特に密教において信仰される明王の一尊です。梵名（サンスクリット語）ではラーガラージャ（rāgarāja）といい、愛欲を司る神格でありながら、その愛欲を悟りへと転化させる力を持つとされます。忿怒の形相をしているのが特徴です。愛染王とも呼ばれます。

概説

愛染明王は、金剛薩埵（こんごうさった）の化身とされ、通常は17尊、時には37尊の眷属を従えるとされます。密教における重要な尊格であり、その信仰は多岐にわたります。

異名

愛染明王にはいくつかの異名が存在します。

吒枳王（だきおう）：『覚禅鈔』には愛染明王の異名として吒枳王が挙げられています。また、『妙吉祥平等秘密最上観門大教王経』では、吒枳王が「大愛明王」と訳されています。
吒枳明王（たきみょうおう）：那須政隆は、『瑜祇経』における「愛染王一字心明」の真言「ウン・タキ・ウン・ジャク」から、吒枳明王を愛染明王であるとしています。

密号

愛染明王の密号は『離愛金剛（りあいこんごう）』です。「離」は煩悩や渇愛を離れる意味、「愛」は悟りの境地を愛するという意味を持ち、この密号は愛染明王が煩悩を離れ、悟りを求める心を象徴していると言えます。

尊容と信仰

愛染明王は、一面六臂（顔が一つで腕が六本）の忿怒相で表されます。頭には獅子の冠をかぶり、宝瓶の上の蓮華座に結跏趺坐（けっかふざ）する姿が一般的です。その身色は真紅で、背には日輪を背負っています。

造像

愛染明王の造像は、座像が圧倒的に多く、立像は非常に珍しいです。主な立像の例としては、

和歌山県紀の川市の円福寺所蔵の江戸時代の作例
山梨県甲斐市の天澤寺山門の二天像（摩利支天と対）
東京都目黒区の瀧泉寺（目黒不動）本堂安置像

などが挙げられます。

また、天に向かって弓を引く姿の「天弓愛染明王像」も存在し、高野山金剛峯寺、京都府木津川市の神童寺、山梨県甲州市塩山の放光寺などに伝えられています。日蓮筆と伝えられる馬に乗る八臂像や、両頭など異形の容姿で描かれた図像も存在します。

信仰

愛染明王は、恋愛成就、縁結び、家庭円満などのご利益があるとされ、古くから信仰を集めています。「愛染＝藍染」という解釈から、染物・織物職人の守護仏としても信仰されています。愛欲を否定しないことから、遊女や水商売の女性の信仰対象にもなっています。

日蓮系の諸宗派では、大曼荼羅御本尊に不動[[明王]]と並んで愛染明王の種字が配置されています。また、寺院の本堂では、三宝尊の周囲に不動[[明王]]と相対して愛染明王が配置されることがあります。日蓮の曼荼羅において、不動[[明王]]は生死即涅槃を、愛染明王は煩悩即菩提を象徴するとされます。

軍神としての側面も持ち、直江兼続は兜に「愛」の文字をあしらったとされています。

愛染明王の功徳

愛染明王の姿には、それぞれ深い象徴的な意味が込められています。

象徴

燃え盛る日輪：仏の無上の浄菩提心を表し、煩悩を焼き尽くす智火を象徴します。
獅子の冠：あらゆる怨敵を降伏させ、衆生を救済する仏の勇猛心を象徴します。
五鈷鉤：衆生の五智を呼び覚まし、正しい道へと導くことを意味します。
一面三目：法身、般若、解脱を意味し、世俗面では仁愛、知恵、勇気の三徳を表します。
真紅の身体：愛染明王の大愛と大慈悲が溢れ出ていることを表します。
六臂：六道輪廻の衆生を救うことを意味します。また、それぞれの腕が持つ法具には、以下のような意味があります。
第一手：息災を意味し、左手の五鈷鈴は衆生を迷いから覚醒させ、右手の五鈷杵は衆生を悟りへ導きます。
第二手：敬愛と融和を意味し、弓と矢は人々の協調と和合を促し、大悲の矢は憎しみの心を射抜きます。
第三手：増益と降伏を意味し、左手の拳は衆生の求める宝を、右手の赤い蓮華は魔を調伏することを表します。
紅蓮の蓮華座：愛染三昧の境地を意味し、宝瓶は仏法の無限の宝を表します。

十二大願

愛染明王は、一切衆生を苦悩から救うために、以下の十二の誓願を立てたとされます。

1. 智慧の弓と方便の矢で、衆生に愛と尊敬の心を与え、幸運を授ける。
2. 悪心を善因に転換し、善果を得させる。
3. 三毒の煩悩を打ち砕き、心を浄化し、菩提心を起こさせる。
4. 邪心や驕慢を離れさせ、「正見」へと導く。
5. 争いごとの悪縁を断ち、安穏に暮らせるようにする。
6. 病苦や天災の苦難を取り除き、天寿を全うさせる。
7. 貧困や飢餓の苦悩を取り除き、福徳を与える。
8. 悪魔や鬼神による苦しみを取り除き、安楽に暮らせるようにする。
9. 子孫繁栄、家運上昇、一家を守り、幸福をもたらす。
10. 前世の悪業を浄化し、死後に極楽へ往生させる。
11. 女性に良縁を与え、結婚後は善根となる子供を授ける。
12. 女性の出産の苦しみを和らげ、子供に福徳と愛嬌を授ける。

種字・印・真言

種字：ウーン（hūṃ）、ウン（hhuṃ）
印：愛染明王根本印
真言：オン・マカラギャ・バゾロウシュニシャ・バザラサトバ・ジャク・ウン・バン・コク（Oṃ mahārāga vajroṣṇīṣa vajrasattva jaḥ hūṃ vaṃ hoḥ）
一字心明：ウン・タキ・ウン・ジャク（Hūṃ ṭaki hūṃ jaḥ）
ウン・タキ・ウン・ジャク・シッジ（Hūṃ ṭaki hūṃ jaḥ siddhi）

愛染明王の起源

平岡龍人は、愛染明王の真言「タキ・フン・ジャク」を「一切世間の全ての有情を欲と憤怒で清める」と解釈し、具徳金剛手（ぐとくこんごうしゅ）を金剛薩埵の「愛染三昧」の化身であるとしています。

栂尾祥雲は、『理趣経』の主題である五秘密における金剛薩埵の「五秘密の三昧」が愛染明王の姿であるとし、『理趣経』の本尊は愛染明王であるとしています。

愛染明王と不動[[明王]]

日本では、不動[[明王]]と愛染明王の両尊を祀る形式が1338年頃に成立した文観の『三尊合行秘次第』に始まるとする説があります。

広島県の円光寺・明王院の五重塔には、大日[[如来]]を本尊として左右に不動[[明王]]と愛染明王が祀られており、初期の例として挙げられます。

文観の『三尊合行秘次第』は、如意宝珠を本尊として、不動[[明王]]と愛染明王を配する形式で、如意宝珠は如意輪観音の三昧耶形であるという考え方もあります。

高野山には、空海の請来品を保管する瑜祇塔という建物があり、瑜祇経が典拠となっています。金剛峯寺の名称は、この瑜祇塔に由来するとされます。

寺院

愛染明王は守護尊として祀られることが多いですが、以下のように本尊としている例も存在します。

愛染明王を本尊とする寺院

愛染堂（勝鬘院）（大阪市天王寺区）
金剛三昧院（和歌山県高野町）
舎那院（滋賀県長浜市）
愛染院（東京都練馬区）
光明山愛染院日曜寺（東京都板橋区）
愛染明王堂（静岡県下田市）
駒形山妙高寺（新潟県小千谷市）

その他、愛染明王を祀る代表的な寺院

西大寺（奈良県奈良市）
久修園院（大阪府枚方市）
神護寺（京都市右京区）
神童寺（京都府木津川市）
覚園寺（鎌倉市二階堂）
長雲寺（長野県千曲市稲荷山）
放光寺（山梨県甲州市）
赤岩寺愛染堂（豊橋市多米町）
青龍寺本堂右脇陣（高知県土佐市）
永安寺（石川県金沢市）

美術館等

愛染明王像を所蔵する主な美術館

細見美術館
五島美術館
奈良国立博物館
東京国立博物館
根津美術館
MOA美術館
ボストン美術館

脚注

注釈

出典

参考文献

那須政隆 著 『瑜伽大教王教所説の曼荼羅について』、智山学報（新第11巻）、昭和12年（1937年）刊。
木村秀明 著 「『幻化網タントラの諸尊』曼荼羅の構成尊」、密教学研究（第21号）、1989年刊。
川崎一洋 著 『大理国時代の密教における八大明王の信仰』、密教図像（第26号）、平成19年（2007年）刊
密教大辞典編纂会 遍 「『密教大辞典』 - 縮刷版 - 」、法蔵館、昭和62年（1987年）刊。
田村隆照 著 『図説真言密教のほとけ』、朱鷺書房、1990年刊。
平岡龍人 著 『密教経軌の説く 金剛薩埵の研究』、永田文昌堂、平成24年（2012年）刊。
静慈園 編 『弘法大師空海と唐代密教』、法蔵館、2005年刊。
鍵和田聖子 著 「『両頭愛染明王の成立に関する一考察』金胎不二の図像的表現を中心に」、印度學佛教學研究第六十巻第二号、平成24年（2012年）刊。
水原堯栄 著 『邪教立川流の研究』、全正舎書籍部、1923年刊。
水原堯栄 著 『邪教立川流の研究』、日本仏教新聞社、昭和33年（1958年）刊。
水野堯栄 著 『邪教立川流の研究』、富山書店、昭和43年（1968年）刊。
真鍋俊照 著 『邪教・立川流』、筑摩書房、1999年刊。
真鍋俊照 著 『邪教・立川流』（ちくま学芸文庫）、筑摩書房、2002年刊。

関連項目

直江兼続
愛染カツラ (木)（北向観音）
カーマデーヴァ

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