日本聖殉教者教会
イタリア共和国の首都ローマの西北西に位置する港湾都市チヴィタヴェッキアに建立された、カトリック教会のフランシスコ会に属する聖堂が、日本聖殉教者教会（CHIESA DEI SANTI MARTIRI GIAPPONESI）です。
日本のキリスト教史は、1549年にイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、その教えを伝えたことから始まります。その後、信者は徐々に増加しましたが、キリスト教が広まるにつれて、既存の宗教との軋轢や、一部の商人による奴隷貿易といった問題が表面化します。時の権力者であった豊臣秀吉は、これらの状況を受けて1587年に宣教師の国外追放を命じる「バテレン追放令」を発布しました。
1593年には、フランシスコ会からペトロ・バウチスタ神父らが日比修交使節として来日しましたが、1596年のサン＝フェリペ号事件を機にキリスト教への警戒感が再び強まります。同年12月、秀吉は二度目の禁教令を公布し、京都に滞在していたキリスト教徒の捕縛と処刑を命じました。この命令により、ペトロ・バウチスタ神父を含む24名のキリスト教徒が捕らえられ、遠く長崎へ送られることになります。護送の途中でさらに2名が加わり、合計26名となりました。彼らは京都から長崎まで約1ヶ月かけて歩かされ、1597年2月5日、長崎西坂の丘で十字架にかけられ殉教しました。この出来事における26名は、後に「日本二十六聖人」としてカトリック教会によって聖人の列に加えられることになります。
江戸時代に入り、1615年10月18日には、伊達政宗の命を受けた支倉常長が副使を務める慶長遣欧使節団が、通商交渉を目指してこのチヴィタヴェッキア港に上陸し、ローマへと向かいました。この地は、かつて日本の使節団が第一歩を印した歴史的な場所でもあったのです。
鎖国が終わり、日本の開国後間もない1862年6月8日、教皇ピウス9世は、先の長崎での殉教者26名を聖人として宣言し、彼らを「日本二十六聖人」と称しました。この列聖を受けて、支倉常長が上陸したゆかりの地であるチヴィタヴェッキアのフランシスコ会修道院にあった聖堂が、1864年に「日本聖殉教者教会」と命名され、改修の上で献堂されました。
当時の改修作業はイタリア現地の職人によって手掛けられました。聖人たちの姿が描かれた装飾が施されたものの、日本の風俗に関する情報がまだ十分に伝わっていなかったためか、その描写は無国籍風で、中国人とも見分けがつかないような姿だったと伝えられています。後にここを訪れた日本人の中には、その表現に落胆する者もいたといいます。
その後、教会は第二次世界大戦の戦禍に見舞われます。チヴィタヴェッキア港が枢軸軍の拠点となったため、連合軍による激しい空襲の標的となり、教会も甚大な被害を被りました。終戦後の復興にあたり、損傷した聖堂の内部装飾として壁画を制作するため、日本の画家である長谷川路可が招聘されることになりました。
長谷川路可は1950年12月にイタリアに渡り、翌1951年1月には駐バチカン代理公使金山政英に面会し、教会内装の依頼を受諾しました。彼は直ちに壁画の構想に取りかかり、同年5月に下絵を完成させました。同年7月からチヴィタヴェッキアのフランシスコ会修道院に寄宿し、8月には壁画制作に着手します。後陣中央部分が同年12月に完成し、祭壇を囲む正面殉教図5画面と天井画は1954年2月に完成しました。その後、信徒席周辺の小祭壇の壁画制作にとりかかり、同年10月には主要な壁画の完成祝別式が行われました。この功績により、長谷川路可はチヴィタヴェッキア市の名誉市民に列せられました。
しかし、壁画制作の資料を積んだ船が1957年にスエズ運河で沈没するという不幸に見舞われ、下絵などが失われてしまいました。それでも、この偉業は高く評価され、1960年11月にはイタリアでの日本二十六聖人殉教大壁画の完成が評価され、第8回菊池寛賞を受賞しています。
長谷川路可によって描かれた壁画は、教会内部を荘厳に彩っています。主な内容は以下の通りです。
後陣および聖壇: 日本二十六聖人の殉教場面を中心に描かれています。後陣正面には西坂の刑場が大きく描かれ、フランシスコ・ブランコ、ペトロ・バウチスタ、ルドビコ茨木といった聖人たちと刑吏が登場します。後陣左側にはコスメ竹屋、ヨハネ絹屋、ヨアキム榊原、ヨハネ五島、フィリッポ・デ・ヘスス、フランシスコ・デ・サン・ミゲルなどが、右側にはパウロ鈴木、パウロ三木、ガブリエル伊勢、フランシスコ医師、ディエゴ喜斎、マルチノ・デ・ラ・アセンシオン、ゴンザロ・ガルシアなどが描かれています。聖壇左側には、長崎への護送途中の光景として、彼杵の浦で船出を待つマチアス、パウロ茨木、ペトロ助四郎、トマス談義者、アントニオといった囚人たちと警護の武士、そして長谷川路可自身の自画像も配されています。聖壇右側には、長崎へ曳かれて行く一行を追って仲間に加わりたいと願う大工のフランシスコ吉や、ミカエル小崎、ボナベントゥラ、トマス小崎、レオン烏丸といった聖人たちと町人が描かれています。
天井画: 後陣正面の天井には、桃山時代の正装をした聖母マリアと幼子イエスからなる聖母子像が描かれています。その左右にはフランシスコ・ザビエルとアッシジの聖フランシスコ、頂上には天の眼が配されています。後陣と聖壇の境界には、久留子紋と伊達政宗が豊臣秀吉から賜った桐紋が交互に並べられた装飾帯が施されています。聖壇の天井画左側には支倉常長が、右側にはチヴィタヴェッキアの守護聖人である聖フェルミナが描かれ、教会が持つ歴史的、地理的な繋がりが示されています。
* 礼拝室側壁小聖壇: 礼拝室の側壁にある小聖壇には、聖ペトロと聖パウロ、幼いキリストを抱く聖ヨゼフ、アッシジの聖フランシスコ、聖処女マリア、みこころのキリスト、幼いキリストを抱く聖アントニオといった聖人たちの像や場面が描かれています。
壁画完成後も、長谷川路可は1967年6月に教皇パウロ6世に招聘され、残された礼拝堂天井画の制作について打合せを行うため再びイタリアを訪れました。しかし、同年6月30日、ローマで脳溢血を発病し、7月3日にメルチェデ病院で逝去しました。彼の功績を称え、7月7日には日本聖殉教者教会においてチヴィタヴェッキア市の市葬が執り行われました。画家として生涯を日本聖殉教者教会での壁画制作に捧げた長谷川路可は、この教会と深いつながりを持つことになりました。
日本聖殉教者教会は、単なる宗教施設としてだけでなく、日本のキリスト教史における殉教者の記憶、江戸時代の遣欧使節、そして戦後の文化交流という、日伊両国間の歴史と文化、信仰の絆を物語る重要な場所となっています。
教会設立の歴史的背景
日本のキリスト教史は、1549年にイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、その教えを伝えたことから始まります。その後、信者は徐々に増加しましたが、キリスト教が広まるにつれて、既存の宗教との軋轢や、一部の商人による奴隷貿易といった問題が表面化します。時の権力者であった豊臣秀吉は、これらの状況を受けて1587年に宣教師の国外追放を命じる「バテレン追放令」を発布しました。
1593年には、フランシスコ会からペトロ・バウチスタ神父らが日比修交使節として来日しましたが、1596年のサン＝フェリペ号事件を機にキリスト教への警戒感が再び強まります。同年12月、秀吉は二度目の禁教令を公布し、京都に滞在していたキリスト教徒の捕縛と処刑を命じました。この命令により、ペトロ・バウチスタ神父を含む24名のキリスト教徒が捕らえられ、遠く長崎へ送られることになります。護送の途中でさらに2名が加わり、合計26名となりました。彼らは京都から長崎まで約1ヶ月かけて歩かされ、1597年2月5日、長崎西坂の丘で十字架にかけられ殉教しました。この出来事における26名は、後に「日本二十六聖人」としてカトリック教会によって聖人の列に加えられることになります。
教会の創設と改修
江戸時代に入り、1615年10月18日には、伊達政宗の命を受けた支倉常長が副使を務める慶長遣欧使節団が、通商交渉を目指してこのチヴィタヴェッキア港に上陸し、ローマへと向かいました。この地は、かつて日本の使節団が第一歩を印した歴史的な場所でもあったのです。
鎖国が終わり、日本の開国後間もない1862年6月8日、教皇ピウス9世は、先の長崎での殉教者26名を聖人として宣言し、彼らを「日本二十六聖人」と称しました。この列聖を受けて、支倉常長が上陸したゆかりの地であるチヴィタヴェッキアのフランシスコ会修道院にあった聖堂が、1864年に「日本聖殉教者教会」と命名され、改修の上で献堂されました。
当時の改修作業はイタリア現地の職人によって手掛けられました。聖人たちの姿が描かれた装飾が施されたものの、日本の風俗に関する情報がまだ十分に伝わっていなかったためか、その描写は無国籍風で、中国人とも見分けがつかないような姿だったと伝えられています。後にここを訪れた日本人の中には、その表現に落胆する者もいたといいます。
戦禍からの復興と壁画制作
その後、教会は第二次世界大戦の戦禍に見舞われます。チヴィタヴェッキア港が枢軸軍の拠点となったため、連合軍による激しい空襲の標的となり、教会も甚大な被害を被りました。終戦後の復興にあたり、損傷した聖堂の内部装飾として壁画を制作するため、日本の画家である長谷川路可が招聘されることになりました。
長谷川路可は1950年12月にイタリアに渡り、翌1951年1月には駐バチカン代理公使金山政英に面会し、教会内装の依頼を受諾しました。彼は直ちに壁画の構想に取りかかり、同年5月に下絵を完成させました。同年7月からチヴィタヴェッキアのフランシスコ会修道院に寄宿し、8月には壁画制作に着手します。後陣中央部分が同年12月に完成し、祭壇を囲む正面殉教図5画面と天井画は1954年2月に完成しました。その後、信徒席周辺の小祭壇の壁画制作にとりかかり、同年10月には主要な壁画の完成祝別式が行われました。この功績により、長谷川路可はチヴィタヴェッキア市の名誉市民に列せられました。
しかし、壁画制作の資料を積んだ船が1957年にスエズ運河で沈没するという不幸に見舞われ、下絵などが失われてしまいました。それでも、この偉業は高く評価され、1960年11月にはイタリアでの日本二十六聖人殉教大壁画の完成が評価され、第8回菊池寛賞を受賞しています。
壁画に描かれた世界
長谷川路可によって描かれた壁画は、教会内部を荘厳に彩っています。主な内容は以下の通りです。
後陣および聖壇: 日本二十六聖人の殉教場面を中心に描かれています。後陣正面には西坂の刑場が大きく描かれ、フランシスコ・ブランコ、ペトロ・バウチスタ、ルドビコ茨木といった聖人たちと刑吏が登場します。後陣左側にはコスメ竹屋、ヨハネ絹屋、ヨアキム榊原、ヨハネ五島、フィリッポ・デ・ヘスス、フランシスコ・デ・サン・ミゲルなどが、右側にはパウロ鈴木、パウロ三木、ガブリエル伊勢、フランシスコ医師、ディエゴ喜斎、マルチノ・デ・ラ・アセンシオン、ゴンザロ・ガルシアなどが描かれています。聖壇左側には、長崎への護送途中の光景として、彼杵の浦で船出を待つマチアス、パウロ茨木、ペトロ助四郎、トマス談義者、アントニオといった囚人たちと警護の武士、そして長谷川路可自身の自画像も配されています。聖壇右側には、長崎へ曳かれて行く一行を追って仲間に加わりたいと願う大工のフランシスコ吉や、ミカエル小崎、ボナベントゥラ、トマス小崎、レオン烏丸といった聖人たちと町人が描かれています。
天井画: 後陣正面の天井には、桃山時代の正装をした聖母マリアと幼子イエスからなる聖母子像が描かれています。その左右にはフランシスコ・ザビエルとアッシジの聖フランシスコ、頂上には天の眼が配されています。後陣と聖壇の境界には、久留子紋と伊達政宗が豊臣秀吉から賜った桐紋が交互に並べられた装飾帯が施されています。聖壇の天井画左側には支倉常長が、右側にはチヴィタヴェッキアの守護聖人である聖フェルミナが描かれ、教会が持つ歴史的、地理的な繋がりが示されています。
* 礼拝室側壁小聖壇: 礼拝室の側壁にある小聖壇には、聖ペトロと聖パウロ、幼いキリストを抱く聖ヨゼフ、アッシジの聖フランシスコ、聖処女マリア、みこころのキリスト、幼いキリストを抱く聖アントニオといった聖人たちの像や場面が描かれています。
長谷川路可の晩年と教会
壁画完成後も、長谷川路可は1967年6月に教皇パウロ6世に招聘され、残された礼拝堂天井画の制作について打合せを行うため再びイタリアを訪れました。しかし、同年6月30日、ローマで脳溢血を発病し、7月3日にメルチェデ病院で逝去しました。彼の功績を称え、7月7日には日本聖殉教者教会においてチヴィタヴェッキア市の市葬が執り行われました。画家として生涯を日本聖殉教者教会での壁画制作に捧げた長谷川路可は、この教会と深いつながりを持つことになりました。
日本聖殉教者教会は、単なる宗教施設としてだけでなく、日本のキリスト教史における殉教者の記憶、江戸時代の遣欧使節、そして戦後の文化交流という、日伊両国間の歴史と文化、信仰の絆を物語る重要な場所となっています。
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