根の説

根の説：有機化合物構造論における古典的理論とその終焉

有機化学の歴史において、「根の説（Radical Theory）」は重要な役割を果たした古典的な理論です。この説は、有機化合物がいくつかの「根」と呼ばれる不変な要素の組み合わせから成るというものでした。

根の説の誕生

根の概念は、アントワーヌ・ラヴォアジエの化合物体系において、酸素を除いた化合物の残りの部分を指す用語として最初に登場しました。その後、19世紀初頭には、化学反応においてバラバラにならず、集団として振る舞う原子団を意味するようになりました。これは当時の無機化学における多原子イオンの概念とほぼ同義でした。

例えば、ゲイ＝リュサックによるシアン根(CN)の発見や、アンペールによるアンモニウム根(NH4)の発見などが挙げられます。1820年代以降、有機化合物の研究が盛んになると、有機化合物にもこのような「根」が存在するかどうかが注目されるようになりました。

デュマはエタノールの研究から、エタノールがC2H4（エチレン）と水の結合体であり、水が他の化学種と交換することで誘導体が生成すると考えました。これは有機化合物にも不変な要素が存在するという最初の主張でした。ベルセリウスはこのC2H4を「エテリン」と命名し、この説を「エテリン説」と呼びました。

ヴェーラーとリービッヒは安息香酸誘導体の研究から、反応で変化しないC7H5Oの部分（ベンゾイル根）を発見しました。その後、ケインとリービッヒはエタノール誘導体から反応で変化しないC2H5の部分（エチル根）を発見しました。これらの発見から、リービッヒは有機化合物には化学反応で変化しない根が存在するという「根の説」を提唱しました。

当時の第一人者であったベルセリウスは、自身の電気化学的二元論の立場から根の説を支持しました。

根の単離と初期の展開

当時は、分子内に存在する根は単離できると考えられていました。ブンゼンは有機ヒ素化合物の研究からカコジル根((CH3)2As)の単離に成功したと報告しました。コルベは酢酸の電気分解でメチル根を得たと報告し、フランクランドは有機亜鉛化合物の研究でメチル根、エチル根の生成を報告しました。しかし、これらは後に根の2量体であることが判明しました。これは、当時の分子の概念の未確立によるものでした。一方、ジェラールは有機化合物中の根は化学反応においてのみ現れるもので、実体は存在しないと主張しました。

根の不変性の崩壊と概念の変容

デュマとその弟子らは、不変とされていた根が化学変化を起こす例を多数発見しました。1834年、デュマはエタノールの塩素化でクロラールを生成させ、エチル根が変化することを示しました。しかし、これは大きな反響を呼びませんでした。

ローランはナフタレンのハロゲン置換体の研究から、分子の骨格部分（核）の水素がハロゲンに置換されても物質の性質に大きな影響を与えないという「核の説」を発表しました。デュマも置換反応の重要性に気づき、酢酸の塩素化でトリクロロ[[酢酸]]を得て、水素とハロゲンの置換が物質の性質に影響しないという立場に変わりました。

リービッヒは農芸化学に転向し、根の説の擁護からは離れていました。ベルセリウスも多くの置換反応の例を前に、根の説を修正せざるを得ませんでした。ベルセリウスはジェラールの説を採用し、化合物の性質において重要な根とそうでない根に分け、重要な根は不変だが、そうでない根は置換反応を起こすことができるとしました。ここで、特定の性質を示す根という、現在の官能基に相当する概念が導入されました。

コルベの根の説と原子価説

コルベはベルセリウスの考えを引き継ぎましたが、根の不変性にはこだわっていませんでした。コルベはニトリルの加水分解から、ニトリルの性質を表す根CNがカルボン酸の性質を表す根C2O3へと変化すると主張しました。また、エタノール、アセトアルデヒド、酢酸などの相互関係を、CH3•Cという根の存在で説明しました。

フランクランドは有機金属化合物の研究から原子価の概念を提唱し、コルベはこれを有機化合物に拡張し、すべての化合物が炭素の酸化物、二酸化炭素の誘導体とみなせることを提唱しました。コルベとケクレはほぼ同時期に炭素の原子価が4価であることに到達しました。しかし、コルベは根が原子の集合体であると考えていたのに対し、ケクレは根の実体概念を否定し、原子間の結合を重視しました。

根の説の終焉

パスツールによる酒石酸の鏡像異性体の分離、幾何異性体やジアステレオマーの発見、そしてファント・ホッフとル・ベルによる炭素の4つの原子価が空間的に正四面体の頂点方向を持つという説の提唱は、根の概念を否定するものでした。コルベはこれを批判しましたが、多くの化学者はファント・ホッフとル・ベルの理論を受け入れました。コルベの死後、根の説はほぼ完全に放棄されることになりました。

根の説は、現代化学の構造論に繋がる重要なステップでした。しかし、その不変性の概念は、置換反応の発見や原子価説の登場によって覆され、歴史の舞台から姿を消していったのです。

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