根岸興行部
根岸興行部は、明治から昭和にかけて日本の大衆芸能、特に浅草公園六区の興行界において重要な足跡を残した企業です。その起源は、江戸時代末期に常陸国（現在の茨城県）で生まれた根岸浜吉が、明治時代に事業を起こしたことに始まります。
明治20年（1887年）10月1日、当時東京で人気を博していた「道化踊り」を上演するための小屋として、根岸浜吉は浅草公園六区に「常磐座」を設立しました。これは浅草六区における最初の常設劇場の一つとされ、その名称は創業者浜吉の出身地である常陸国（別称：常州）に由来するといわれています。浜吉は、常磐座を拠点に、歌舞伎や新派劇といった演劇だけでなく、連鎖劇を含む活動写真（映画）の上映にも事業を拡大し、浅草を代表する興行師の一人として名を馳せました。
明治40年（1907年）には、上野で開催された東京勧業博覧会の名物であった観覧車を常磐座の隣に移設し、大きな話題を集めました。この観覧車は後に撤去され、明治44年（1911年）10月1日、跡地に新たな劇場「金龍館」が開館しました。
大正元年（1912年）に浜吉が亡くなると、事業は娘婿の小泉丑治が引き継ぎ、根岸吉之助と共に法人組織としての「根岸興行部」を設立しました。当時の常磐座は、映画会社である福宝堂の作品を主に上映していましたが、同年10月に福宝堂を含む4社が合併して日活が誕生すると、映画の供給が滞る事態が発生します。これに対し、元福宝堂の営業部長で当時日活に在籍していた小林喜三郎に苦情を申し入れたところ、小林は日活を退社し、すぐに「常盤商会」を設立。急造の撮影所まで用意して週に4〜5本という驚異的なペースで映画を量産し、常磐座に供給しました。日活の要請により小林は翌年早々に日活に復帰するという出来事がありましたが、この一件は当時の常磐座が映画興行においていかに重要な位置を占めていたかを示しています。
大正2年（1913年）には、常磐座や金龍館の並びに洋画の封切館「東京倶楽部」を開業。大正5年（1916年）には、軽演劇の常磐座、オペラの金龍館、映画の東京倶楽部という3館共通の入場券を導入するなど、集客策を展開しました。この頃の小泉丑治は、興行事業に加え、証券ファンド関連企業などの役員を兼任しており、「大正バブル紳士」と呼ばれるほどの財力を有していました。
大正6年（1917年）1月、常磐座で伊庭孝と高木徳子が率いる歌舞劇協会がオペラ『女軍出征』を上演すると大ヒットを記録し、これを機に「浅草オペラ」の時代が幕を開けたとされています。根岸興行部は浅草オペラの中心的存在となり、大正8年（1919年）には清水金太郎・静子夫妻らの七声歌劇団が金龍館で活動を開始。翌大正9年（1920年）には、松竹専属だった新星歌舞劇団を引き抜き、「根岸大歌劇団」として金龍館を拠点に据えました。根岸大歌劇団は、伊庭孝らが参加し、後にロッシーニやヴェルディといった古典オペラも上演し、浅草オペラの人気を牽引しました。また、この時期、根岸吉之助が大阪で安来節の人気を知り、大正11年（1922年）に常磐座で上演を開始したところ、浅草に空前の安来節ブームを巻き起こしました。
大正12年（1923年）の関東大震災により、常磐座をはじめ根岸興行部の施設は甚大な被害を受けました。経営再建のため、根岸興行部は松竹の支援を受け、その傘下に入ります。震災からの復興後、昭和5年（1930年）頃の常磐座は帝国キネマの封切館、東京倶楽部は洋画の二番館として営業していましたが、宮沢賢治やサトウ・ハチローら「ペラゴロ」と呼ばれる人々を生み出すほど栄えた浅草オペラは次第に衰退していきました。
根岸大歌劇団の仕掛け人でもあった小泉丑治の息子、根岸吉之助は根岸家の養子となり、大正7年（1918年）に開館した「木馬館」の館主を務めました。木馬館は当初安来節などを上演し、根岸興行部の三代目経営者となった吉之助によって運営されます。戦後の改築を経て、昭和45年（1970年）に浪曲師の東家楽浦の要望を受け、1階が浪曲の定席「木馬亭」となりました（「木馬亭」の名称は昭和50年頃から使われ始めます）。2階では昭和52年（1977年）まで安来節の興行が続けられた後、大衆演劇の劇場に転換し、そこから「下町の玉三郎」と呼ばれ人気を博した梅沢富美男が誕生するなどの歴史を刻みました。
木馬亭は、根岸興行部の四代目当主である二代目根岸浜吉の没後、その妻である根岸京子が受け継ぎ、現在も都内唯一の浪花節（浪曲）定席として営業を続けています。京子は木馬亭席亭として、平成10年（1998年）に第3回林家彦六賞特別賞を受賞しています。二代目浜吉と京子の子息は映画監督の根岸吉太郎です。
一方、常磐座、金龍館、東京倶楽部の三館は、震災後に松竹の手に渡り、それぞれ名称や用途を変えながらも興行を続けました。常磐座は傍系会社の中映が名画座「トキワ座」として経営していましたが、昭和59年（1984年）に休館。その後、昭和62年（1987年）に一時的に演劇興行が復活したものの、平成3年（1991年）の再開発に伴い閉鎖されました。金龍館は「浅草ロキシー映画劇場」「浅草松竹映画劇場」と改称して松竹系の映画館となり、東京倶楽部も「東京クラブ」と表記を改めて洋画名画座となりましたが、いずれも常磐座と同時期に閉鎖されました。かつての根岸興行部の主要施設があった場所は、現在では再開発され、商業施設「ROX」シリーズなどが建っており、浅草六区から劇場文化の中心地としての面影は薄れつつあります。しかし、木馬亭は、根岸興行部が築いた大衆芸能の歴史を今に伝える貴重な存在として営業を続けています。
創業と浅草六区の開拓
明治20年（1887年）10月1日、当時東京で人気を博していた「道化踊り」を上演するための小屋として、根岸浜吉は浅草公園六区に「常磐座」を設立しました。これは浅草六区における最初の常設劇場の一つとされ、その名称は創業者浜吉の出身地である常陸国（別称：常州）に由来するといわれています。浜吉は、常磐座を拠点に、歌舞伎や新派劇といった演劇だけでなく、連鎖劇を含む活動写真（映画）の上映にも事業を拡大し、浅草を代表する興行師の一人として名を馳せました。
明治40年（1907年）には、上野で開催された東京勧業博覧会の名物であった観覧車を常磐座の隣に移設し、大きな話題を集めました。この観覧車は後に撤去され、明治44年（1911年）10月1日、跡地に新たな劇場「金龍館」が開館しました。
法人化と事業の拡大
大正元年（1912年）に浜吉が亡くなると、事業は娘婿の小泉丑治が引き継ぎ、根岸吉之助と共に法人組織としての「根岸興行部」を設立しました。当時の常磐座は、映画会社である福宝堂の作品を主に上映していましたが、同年10月に福宝堂を含む4社が合併して日活が誕生すると、映画の供給が滞る事態が発生します。これに対し、元福宝堂の営業部長で当時日活に在籍していた小林喜三郎に苦情を申し入れたところ、小林は日活を退社し、すぐに「常盤商会」を設立。急造の撮影所まで用意して週に4〜5本という驚異的なペースで映画を量産し、常磐座に供給しました。日活の要請により小林は翌年早々に日活に復帰するという出来事がありましたが、この一件は当時の常磐座が映画興行においていかに重要な位置を占めていたかを示しています。
大正2年（1913年）には、常磐座や金龍館の並びに洋画の封切館「東京倶楽部」を開業。大正5年（1916年）には、軽演劇の常磐座、オペラの金龍館、映画の東京倶楽部という3館共通の入場券を導入するなど、集客策を展開しました。この頃の小泉丑治は、興行事業に加え、証券ファンド関連企業などの役員を兼任しており、「大正バブル紳士」と呼ばれるほどの財力を有していました。
浅草オペラと安来節の隆盛
大正6年（1917年）1月、常磐座で伊庭孝と高木徳子が率いる歌舞劇協会がオペラ『女軍出征』を上演すると大ヒットを記録し、これを機に「浅草オペラ」の時代が幕を開けたとされています。根岸興行部は浅草オペラの中心的存在となり、大正8年（1919年）には清水金太郎・静子夫妻らの七声歌劇団が金龍館で活動を開始。翌大正9年（1920年）には、松竹専属だった新星歌舞劇団を引き抜き、「根岸大歌劇団」として金龍館を拠点に据えました。根岸大歌劇団は、伊庭孝らが参加し、後にロッシーニやヴェルディといった古典オペラも上演し、浅草オペラの人気を牽引しました。また、この時期、根岸吉之助が大阪で安来節の人気を知り、大正11年（1922年）に常磐座で上演を開始したところ、浅草に空前の安来節ブームを巻き起こしました。
震災、そして昭和へ
大正12年（1923年）の関東大震災により、常磐座をはじめ根岸興行部の施設は甚大な被害を受けました。経営再建のため、根岸興行部は松竹の支援を受け、その傘下に入ります。震災からの復興後、昭和5年（1930年）頃の常磐座は帝国キネマの封切館、東京倶楽部は洋画の二番館として営業していましたが、宮沢賢治やサトウ・ハチローら「ペラゴロ」と呼ばれる人々を生み出すほど栄えた浅草オペラは次第に衰退していきました。
根岸大歌劇団の仕掛け人でもあった小泉丑治の息子、根岸吉之助は根岸家の養子となり、大正7年（1918年）に開館した「木馬館」の館主を務めました。木馬館は当初安来節などを上演し、根岸興行部の三代目経営者となった吉之助によって運営されます。戦後の改築を経て、昭和45年（1970年）に浪曲師の東家楽浦の要望を受け、1階が浪曲の定席「木馬亭」となりました（「木馬亭」の名称は昭和50年頃から使われ始めます）。2階では昭和52年（1977年）まで安来節の興行が続けられた後、大衆演劇の劇場に転換し、そこから「下町の玉三郎」と呼ばれ人気を博した梅沢富美男が誕生するなどの歴史を刻みました。
現在、そして旧施設の終焉
木馬亭は、根岸興行部の四代目当主である二代目根岸浜吉の没後、その妻である根岸京子が受け継ぎ、現在も都内唯一の浪花節（浪曲）定席として営業を続けています。京子は木馬亭席亭として、平成10年（1998年）に第3回林家彦六賞特別賞を受賞しています。二代目浜吉と京子の子息は映画監督の根岸吉太郎です。
一方、常磐座、金龍館、東京倶楽部の三館は、震災後に松竹の手に渡り、それぞれ名称や用途を変えながらも興行を続けました。常磐座は傍系会社の中映が名画座「トキワ座」として経営していましたが、昭和59年（1984年）に休館。その後、昭和62年（1987年）に一時的に演劇興行が復活したものの、平成3年（1991年）の再開発に伴い閉鎖されました。金龍館は「浅草ロキシー映画劇場」「浅草松竹映画劇場」と改称して松竹系の映画館となり、東京倶楽部も「東京クラブ」と表記を改めて洋画名画座となりましたが、いずれも常磐座と同時期に閉鎖されました。かつての根岸興行部の主要施設があった場所は、現在では再開発され、商業施設「ROX」シリーズなどが建っており、浅草六区から劇場文化の中心地としての面影は薄れつつあります。しかし、木馬亭は、根岸興行部が築いた大衆芸能の歴史を今に伝える貴重な存在として営業を続けています。
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