田中健五

田中健五（たなか けんご）

1928年6月4日、広島市に生まれた田中健五は、戦後の日本ジャーナリズム史において重要な足跡を残した人物です。海軍兵学校教授で、高松宮宣仁親王に英語を指導した田中酉熊を父に持ち、都立一中を経て海軍兵学校に入学したものの終戦により退校。旧制東京高校を経て東京大学文学部独文科を卒業後、就職難の中、偶然文藝春秋新社（現・文藝春秋）の採用試験を受けて入社しました。作家の半藤一利は彼の同期生です。

編集者としての才能

当時の文藝春秋は社員100人にも満たない規模でしたが、田中氏は入社後にその編集者としての非凡な才能を発揮します。創業者である菊池寛の没後に入社した彼は、後に「菊池寛を知らない初めての社長」として語られることになります。『文学界』編集部に在籍中には、当時まだ新人だった石原慎太郎や江藤淳といった作家たちと交流し、人脈を築きました。また、小林秀雄責任編集の『現代日本文学館』や、林健太郎単独編集による全巻書き下ろしの『大世界史』といった大型企画を手がけ、出版編集者としても実績を重ねていきます。

『諸君!』の創刊と成長

出版部次長を務めた後、1969年に池島信平社長がオピニオン誌『諸君!』の創刊を決定すると、41歳だった田中氏は初代編集長に抜擢されます。創刊号の巻頭記事には、文藝春秋を一度退社していた立花隆を起用。まだ無名だった立花の才能を高く評価した田中氏は、以後、彼が精力的に記事を発表する場を提供しました。立花隆だけでなく、本田靖春、柳田邦男、上之郷利昭、岩川隆など、後に著名となる多くのノンフィクションライターが『諸君!』から輩出されています。さらに、1971年からは三島由紀夫の父である平岡梓による三島像を描いた連載が始まり、大きな話題を呼びました。

『文藝春秋』編集長時代

1972年には主力誌である『文藝春秋』の編集長に就任します。彼の大胆な編集判断は、1974年11月特別号に掲載された「田中角栄研究－その金脈と人脈」「淋しき越山会の女王」という特集記事によって広く知られることとなります。当時の首相であった田中角栄の金脈と人脈に切り込んだこの記事は、田中氏が抱いた「学歴のない田中角栄がなぜ総理大臣になれたのか」という素朴な好奇心から企画されたものでした。この報道が引き金となり、当初静観していた新聞各紙も追随して報道を始め、田中内閣を退陣へと追い込む結果となりました。これは雑誌ジャーナリズムにおける快挙と評されましたが、田中氏自身は企画の動機が「正義感からではなく好奇心から発したものだ」と語っています。当時の文藝春秋社長は田中角栄と親交があり、記事掲載に反対しましたが、田中氏ら編集部は掲載を断行。雑誌は完売したものの、書籍化は講談社から行われるという経緯をたどりました。

また、田中氏は大胆な企画を続けます。若手学者による匿名執筆集団「グループ1984年」による日本共産党批判の記事（1974年6月号）は、共産党の矛盾を鋭く突くものでしたが、その一方で、翌年には共産党幹部会委員長だった宮本顕治を、文藝春秋の名物企画「同級生交歓」に登場させ、話題となりました。これは、編集者としての田中氏の多角的な視点と度胸を示すエピソードと言えるでしょう。

『週刊文春』編集長時代と困難

1977年、『週刊文春』編集長に就任すると、彼は「クレディビリティの高い、読み応えある雑誌」への刷新を目指します。現在まで続く和田誠のイラストによる表紙に変更し、週刊新潮の谷内六郎の表紙と対抗。誌面から風俗記事やヌード写真をなくす一方で、「淑女の雑誌」といった女性読者向けの連載を始めるなど、読者層の拡大を図りました。落合信彦や上前淳一郎、田原総一朗といった後の著名ライターもこの時期に起用されています。

しかし、1978年には編集長を辞任します。政界圧力説や裏融資説など様々な憶測を呼びましたが、実際には、文藝春秋の表紙画家だった杉山寧を揶揄する記事が彼の怒りを買い、辞任に至ったと言われています。杉山の娘が三島由夫人の平岡瑤子であり、以前田中氏が三島の父に原稿を依頼した経緯から、関係に微妙な面があったことも影響したようです。

社長時代と大きな挑戦

その後、取締役を経て1988年に第7代社長に就任すると、田中氏は積極的な拡大路線を推進します。1991年には若者向け、中高年向け、男性向けと、異なる層をターゲットにした3誌を同時に創刊するという意欲的な挑戦を行いましたが、これらの新雑誌は軌道に乗せることができませんでした。また、社風が経営の障害になると考えたのか、時には奇抜とも言える人事異動を行い、社員の交流を推奨しない姿勢を見せるなど、経営者としての新たな一面を見せました。

社長在任中には、文藝春秋はいくつかの大きな事件に巻き込まれます。特に1990年代前半の週刊文春による宮内庁関連の一連の批判報道は大きな反響を呼び、美智子皇后（当時）の異例のコメントや失声症という事態に至ります。世論が週刊文春批判に傾く中、事態の沈静化を図るため、週刊文春は謝罪広告を掲載しましたが、右翼の怒りは鎮まらず、1993年11月には田中氏の自宅が銃撃される事件が発生しました。幸い田中氏に怪我はありませんでしたが、文藝春秋には厳戒態勢が敷かれ、関係者に大きな精神的負担を与えることとなりました。

1994年には、週刊文春のJR東日本批判記事が原因で、駅売店「キヨスク」から週刊文春が一時姿を消すという、言論の封殺にも繋がりかねない事態が発生します。会社は仮処分申請や裁判で争いますが、最終的には謝罪広告を掲載するという形で決着しました。これは雑誌ジャーナリズムにおける大きな敗北と評されています。また、1995年には、田中氏が立て直しを託した月刊誌『マルコポーロ』に掲載されたホロコースト否定記事が国際的な問題に発展。「サイモン・ウィーゼンタール・センター」からの強い抗議を受け、広告掲載中止の要請という実力行使に至りました。事態収拾のため、文藝春秋は該当号の回収、編集長の解任、そして『マルコポーロ』の廃刊という厳しい対応を余儀なくされました。

退任とその後

これらの事件の責任を取り、田中氏は1995年2月に社長を退任し、会長に就任しました。退任の挨拶では、「何も悔いがないと言えば嘘になります」と複雑な心情を吐露しています。

その後は取締役最高顧問となり、日本雑誌協会や日本文学振興会の理事長などを歴任しました。71歳で文藝春秋を完全に退職する際には、単身ドイツへ留学すると宣言し、かつてアルバイト漬けで満足に勉強できなかった学生時代を取り戻したいと語り、周囲を驚かせました。晩年は肺炎のため、2022年5月7日に93歳でその生涯を閉じました。

田中健五氏は、ジャーナリスト、編集者として数々の意欲的な企画を実現し、雑誌ジャーナリズムの可能性を広げた一方で、社長としては拡大路線や予期せぬ事件に直面するなど、波乱に富んだキャリアを送りました。彼の編集者としての好奇心と大胆な判断力は、戦後文藝春秋の誌面に大きな影響を与えたと言えるでしょう。

もう一度検索