聖家族 (小説)

『聖家族』（せいかぞく）は、日本の作家、堀辰雄（ほり たつお）による短編小説です。この作品は、作者が深く敬愛していた師、芥川龍之介（あくたがわ りゅうのすけ）の突然の死という衝撃的な出来事を契機に紡ぎ出されました。堀辰雄が文壇で認められるきっかけとなった出世作であると同時に、初期の代表作の一つに数えられています。

物語は、師の死によって深い精神的揺さぶりを受けた青年、河野扁理（こうの へんり）が、偶然、師の生前の恋人であった細木夫人（さいき ふじん）とその娘、絹子（きぬこ）に出会うことから展開します。青年は、中心に「死」という不在を据えながら、亡き師と夫人の複雑な関係、そして自身と娘の間に芽生える淡い感情を重ね合わせ、そこに絡み合う三者の間に交錯する繊細かつ微妙な心の動きを通して、自己の確立を模索していきます。この心理描写は、フランスの作家ラディゲやコクトーから影響を受けたとされる理知的で研ぎ澄まされた筆致で活写されています。単行本の初版には、「私はこの書を芥川龍之介先生の霊前にささげたいと思ふ」という献辞が添えられており、師への深い思いが示されています。

発表と刊行

本作は、1930年（昭和5年）に雑誌『改造』の11月号に掲載され、その後、1932年（昭和7年）2月20日には堀自身が装幀を手がけた単行本が江川書房から刊行されました。文庫版としては、新潮文庫の『燃ゆる頬・聖家族』や、岩波文庫の『菜穂子・他五編』に収録されています。

執筆の背景

堀辰雄は、1923年（大正12年）に室生犀星（むろう さいせい）の紹介で芥川龍之介と出会って以来、彼を敬愛する師として深く慕っていました。芥川の滞在する軽井沢を訪れるなど交流を重ねる中で、芥川の恋人であった片山広子（かたやま ひろこ、筆名：松村みね子）とその家族とも親交を結び、二人の恋愛関係も知るところとなります。それだけに、1927年（昭和2年）7月24日の芥川の突然の自殺は、堀に計り知れない衝撃を与えました。当時、東京帝国大学文学部で学んでいた堀は、この出来事から約一年半後に提出した卒業論文で「芥川龍之介論」を取り上げています。さらに卒論発表と同年の言葉や、芥川最期の言葉「何よりもボオドレエルの一行を！」を引用した上で、「自分の先生の仕事を模倣しないで、その仕事の終つたところから出発するもののみが真の弟子であるだらう」「僕は此の言葉の終るところから僕の一切の仕事を始めなければならない」と述べ、師の文学を継承しつつも自身の新たな文学の道を切り拓く強い決意を示しています。日記には「我々ハ《ロマン》ヲ書カナケレバナラヌ」と記し、自身の文学の方向性を明確にしました。芥川の死から約3年の歳月を経て発表された『聖家族』は、「死があたかも一つの季節を開いたかのやうだつた」という象徴的な一文で幕を開けます。堀は本作を「ただもう何かに憑りつかれたやうになつて、一週間ばかりで書き上げてしまつた」と回想しており、その創作の勢いを物語っています。しかし、脱稿後まもない1930年（昭和5年）秋に多量の喀血があり、翌年にはサナトリウムでの療養生活を余儀なくされるなど、自身の健康問題とも向き合うことになります。

登場人物とモデル

本作に登場する主要人物には、作者自身の身近な人々がモデルになったとされています。主人公の河野扁理（こうの へんり）は作者である堀辰雄自身がモデルであり、彼が深く師事していた九鬼（くき）は芥川龍之介がモデルです。九鬼の恋人である細木夫人（さいき ふじん）は、芥川よりも14歳年上であった片山広子（筆名：松村みね子）が、そしてその娘である絹子（きぬこ）は片山総子（かたやま ふさこ、筆名：宗瑛）がモデルと考えられています。堀は片山総子に片想いしていたとも言われています。また、物語に登場する踊り子は、当時浅草の人気レビュー団カジノ・フォーリーに所属していた春野芳子がモデルだとされています。なお、堀の処女作『ルウベンスの偽画』も松村みね子母娘をモデルにしており、『聖家族』の序曲的な位置づけとされています。芥川や堀と交流のあった室生犀星は、堀が娘よりも母に、芥川が母よりも娘に惹かれていたのではないか、という独自の推測を残しています。

物語の概要

物語は、敬愛する師である九鬼の告別式の日、主人公の河野扁理が偶然、九鬼の生前の恋人であった細木夫人と再会する場面から始まります。夫人は成長した扁理の中に九鬼の面影を見出します。九鬼の死後、遺族の依頼で彼の蔵書整理をしていた扁理は、本に挟まれた夫人の手紙の断片を見つけ、ある印象的なフレーズを繰り返し口にするようになります。夫人の手紙をきっかけに彼女の家を訪れた扁理は、夫人の娘・絹子と出会います。九鬼の蔵書印のあるラファエロの画集を自身が売ってしまったことを二人に打ち明けます。ある晩、夢の中に九鬼が現れ、ラファエロの聖家族の絵を示します。その絵の聖母は夫人に、幼児は絹子に似ていました。翌朝、夫人から画集買い戻しのための為替が届きます。買い戻された画集から九鬼の残り香を感じ取る夫人。次第に絹子は、母を通して扁理の中に九鬼の面影を見るようになり、扁理もまた絹子に惹かれていきます。しかし、九鬼のように傷つくことを恐れた扁理は、距離を置こうと踊り子と付き合い始めます。公園で扁理と踊り子を見かけた夫人と絹子は、それに気づかないふりをします。絹子は嫉妬に苦しみますが、友人から踊り子の素性を聞いて安堵します。扁理は細木家を再訪し、一年ほどの旅行に出ることを告げます。絹子は熱心な眼差しを向けます。踊り子との関係に疲れ、出発した扁理は、遠ざかる都会とともに絹子の顔が心の中で大きくなるのを感じます。旅先で、九鬼も同じような苦痛を感じていたのではと思い至り、自身の裏側に死んだ九鬼が生きていることを自覚します。扁理の出発後、病気になった絹子は、扁理が死ぬのではないかと母に尋ねます。夫人は娘が扁理を愛していることを確信し、九鬼が憑いているかもしれないが、それによって彼は救われるのではないかと答えます。苦痛の表情を見せる絹子の眼差しは、やがて聖母を見上げる幼児に似ていくのでした。

評価と解釈

本作は堀辰雄の出世作として文壇で高い評価を得ただけでなく、日本の近代文学史においても、フランスの作家ラディゲやコクトーらの心理分析の手法を見事に昇華させ、取り入れた成功例として重要な位置を占めています。初版本に序文を寄せた横光利一（よこみつ りいち）は、その文学史的な意義を含めて本作を高く評価しました。丸岡明（まるおか あきら）は、ラディゲやコクトーから学んだ論理的で理知的な心理描写について、「何んとも解き難い方程式が、幾度か繰返して因数に分解されてゆくうちに、遂に綺麗に解かれてゆく――そういった印象を読者に与える」と評しています。松田嘉子（まつだ よしこ）は、物語の後半部分における細木夫人と絹子の心理の描写に、コクトーの作品との類似が見られると指摘しています。

堀辰雄は芥川の死後、自らの小説理念として、「現実よりもつと現実なもの」を捉えることこそ芸術の価値を定めるとし、それは優れた虚構の作品を通してのみ触れることができると考えました。そしてラディゲの作品に「少しも告白をしてゐない」虚構性こそが純粋な小説だと述べています。『聖家族』は、師の死という実体験を起点としながらも、私的な告白に留まらず、この「現実よりもつと現実なもの」を描き出すための文学的探求として位置づけられます。源高根（みなもと たかね）は、本作を、堀の切実な人間的体験が文学的体験へと昇華していく一例として捉えています。

水島裕雅（みずしま ひろまさ）は、堀が『聖家族』を執筆することで、師である芥川の死を作品世界の中で形象化し、自身の内面的なあり方を確立しようと試みたのだとしています。丸岡明は、象徴的な冒頭から始まる本作を、作家・堀辰雄にとって「最初の脱皮」であり「宿命的な作品であった」と評し、作家が自らを捨てる際に伴う独特の苦痛が、本作の心理描写の手法や、芥川の死という衝撃を乗り越えようとする姿勢の中に見出せると解説しています。堀文学では、身近な人々の死や自身の病といった体験から、生と死が不可分に結びついていることが描かれると考察されています。

福水明人（ふくみず あきひと）は、芥川の死から最も大きな影響を受けたのは堀辰雄であり、『聖家族』における主人公・扁理（堀自身）と九鬼（芥川）の関係性や類似性について、堀自身が深く自覚していたと考察しています。福水は、堀の人生態度と文学方法が密接に関わっており、自身の苦悩する魂を文学の中心に据え、その魂を支配した根源的な問題が「死・生・愛」であったと論じています。また、堀文学が私小説的な印象を与えない点も、芥川から受け継いだ特色であり、芥川晩年の告白的小説が小説形式を失いつつあったことを見抜いた堀が、自身の求心的な問題に「小説の構想性」や「虚構」を付加することで文学として再生させたのだと解説しています。『聖家族』や『菜穂子』に見られる知的な構想性こそが、一見私小説的に見える堀文学と私小説とを分ける線引きであると結論付けています。

映像化作品

映画『聖家族〜大和路』
2010年5月8日封切
監督：片桐仁
出演：片桐仁、岩田さゆり、末永遥、堀ちえみ ほか
原作：『聖家族』と『大和路』
テレビドラマ『聖家族』
1961年（昭和36年）12月13日、ABCテレビにて放送
脚色：鴇田忠元
出演：風見章子、青江奈美、山本勝、林美智子 ほか

主な刊行本

『聖家族』（江川書房、1932年2月20日） - 500部限定本。堀辰雄装幀。横光利一序文。
『聖家族』（野田書房、1936年10月20日） - 80部限定本。
文庫版『燃ゆる頬・聖家族』（新潮文庫、1947年11月30日、改版1970年）
* 文庫版『菜穂子・他五編』（岩波文庫、1973年4月16日、改版2003年）

もう一度検索