近思録崩れ

近思録崩れ：薩摩藩を揺るがしたお家騒動

近思録崩れ（きんしろくくずれ）は、江戸時代後期、文化5年（1808年）から翌6年（1809年）にかけて薩摩藩（現在の鹿児島県）で発生した大規模なお家騒動です。文化朋党事件、秩父崩れとも呼ばれます。

事件の概要

この騒動では、77名もの藩士が処罰され、その数は有名なお由羅騒動よりも多いものでした。この事件は、薩摩藩の財政改革を大きく遅らせる要因となりました。事件名は、処罰された秩父季保らが朱子学の教本である『近思録』の学習会を通じて同志を募ったことに由来します。

事件の背景

この事件には、複数の要因が複雑に絡み合っていました。

島津重豪の放漫財政

最大の原因として挙げられるのが、当時の藩主、島津重豪の浪費癖です。重豪は、藩の遅れた状況を憂慮し、藩校・造士館の建設や、天文観測所・明時館、佐多薬園などの蘭学関連施設の建設を推進しました。また、他地域から商人を招くなどの政策も行いました。

しかし、薩摩藩は江戸時代初期から慢性的な赤字であり、さらに宝暦治水事業による莫大な借金を抱えていました。そのような状況下で、重豪は文化事業を強行し、貴重な生物が生息する土地の開発を禁止する動植物保護政策も行ったため、農民だけでなく、開墾で生計を立てていた郷士を含む武士階級にも大きな負担を強いることになりました。

さらに、重豪は娘の茂姫を徳川家斉の御台所として嫁がせ、他の子女も有力大名と縁組させました。これらの縁組は藩の地位向上に貢献したものの、それに伴う出費がかさみ、藩財政をさらに圧迫しました。

市田盛常の専横

重豪は正室と死別後、多くの側室を抱えていました。当時の慣習では、藩主・島津斉宣の母である側室・堤氏が正室並みの待遇を受けるべきでしたが、実際には茂姫の母である側室・市田氏が江戸で「お部屋様」と呼ばれ、正室同様の扱いを受けていました。

市田氏は元々大坂藩邸の足軽出身でしたが、弟の市田盛常を重豪に取り立ててもらい、家老の地位を得ました。さらに、島津一門でなければなれない「一所持格」にまで取り立てられ、異例の出世を遂げました。盛常は江戸に居ながらにして国元の役人を指揮するなど、専横的な政治を行ったとされています。重豪の浪費と盛常の専横が相まって、藩内では重豪と盛常に対する不満が高まっていました。

学派の対立

造士館の初代教授であった山本正誼は、荻生徂徠の門人であり、室鳩巣の学派に属する儒学者でした。近思録派も同じ室鳩巣学の一派でしたが、儒教の実践よりも詩文の芸を重視する山本の学派と対立していました。重豪は山本を重用しており、山本の教授職への人事を巡って、近思録崩れ以前に「古学崩れ」という弾圧事件も起こしています。山本が一時教授職を辞任すると、斉宣の侍読であった赤崎貞幹が教授になりましたが、赤崎の死後、再び山本が教授に復帰しました。近思録派には、このような山本の重用に対する不満がありました。

事件の経過

鶴亀問答

島津斉宣は藩主となりましたが、実際には隠居した父・重豪が藩政を牛耳っていました。重豪の浪費による藩の疲弊は深刻化し、斉宣は文化2年（1805年）に「鶴亀問答」という文書を家臣に配布し、財政改革に取り組む意思を示しました。これは、君主の贅沢を戒め、民衆の生活を考えるべきという内容でした。

同年、鹿児島藩の江戸屋敷が全焼したため、財政改革は急務となり、斉宣は重豪の代から藩政を担っていた家老たちに隠居を命じ、文化4年（1807年）には樺山主税久言を抜擢しました。樺山は『近思録』の読書仲間であった秩父季保を推薦し、秩父も家老となりました。しかし、市田盛常は家老を免職にはなりませんでした。

側室・堤氏の東上

文化4年（1807年）、重豪は斉宣の生母である堤氏を江戸に呼び寄せるよう命じました。表向きの理由は、市田氏の死後、重豪が寂しがっているからというものでしたが、市田氏はすでに6年前に亡くなっています。実際には、斉宣の強硬な姿勢に危機感を抱いた市田盛常が、斉宣が母を通して国元の情報を把握するのを阻止する目的があったと考えられています。

この出来事は、斉宣を中心とする藩士たち（近思録党）に危機感を与え、彼らがより急進的に政策を進めるきっかけになったと考えられます。

市田盛常の罷免

文化5年（1808年）、斉宣が鹿児島に帰国すると、市田盛常は突如家老を罷免され、鹿児島への帰国を命じられました。市田一族は鹿児島藩政から追放され、盛常のその後の消息は不明です。

近思録派の政策

市田盛常追放後、鹿児島藩政の中心は樺山久言と秩父季保を中心とする「近思録党」に移りました。彼らは以下の政策を実行しました。

参勤交代の10年保留
新規事業の停止
琉球貿易の拡大

これらの政策は、江戸幕府を無視したものであり、幕府との関係を重視する重豪と対立するものでした。また、新規事業の停止により、重豪が推進してきた蘭学関連施設や鷹狩りの施設が廃止され、重豪の改革に対する反動的な側面も持っていました。

さらに、「近思録党」は自分たちの仲間を優遇したため、藩内の支持を失っていきました。

重豪の逆襲

斉宣は市田盛常の後任として島津安房を江戸家老に任命しましたが、島津安房は幕府老中への謁見を妨害され、仕事を引き継げないまま立ち往生してしまいました。これは重豪が幕府に働きかけたためと考えられています。

斉宣は秩父季保を江戸に同行させようとしましたが、季保の長男が急死したため同行できず、斉宣自身も病気を理由に参勤交代を遅らせていました。しかし、重豪は先手を打ち、樺山久言と秩父季保に隠居を命じました。

斉宣が江戸に向かうと、改革の推進者である二人が処罰される可能性が高いため、斉宣は病気を装い参勤交代を先延ばしにしようとしましたが、これは重豪に介入の機会を与えることになりました。

近思録党の敗北

文化5年（1808年）7月に斉宣が参勤交代で江戸に向かうことが決定すると、「近思録党」とみなされた藩士に処罰が下されました。その中には、処罰の報を聞いただけで自害した者もいました。処罰者は切腹13名、遠島25名、剃髪42名、逼塞23名、謹慎など12名にのぼりました。

その後、廃止されていた施設が復活し、市田盛常の長男が要職に任命されました。重豪は樺山と秩父が関わった政務書類を焼却し、「近思録党」の改革をなかったものとしました。

秩父季保は7月6日に、樺山久言は9月26日に切腹しました。翌文化6年には、斉宣も近思録党を取り立てた責任を問われ隠居に追い込まれました。

主な処分者

島津斉宣：隠居
樺山久言：蟄居閉門（後に内命により切腹）
秩父季保：喜界島に遠島後、切腹
伊地知季安：喜界島に流刑
清水源左衛門：役儀罷免、謹慎（後に切腹）


その他多くの藩士が処罰されました。

事件の影響

この事件は、藩政に関する多くの書類が処分されたため、詳細については不明な部分が多く残っています。

重豪は事件後、財政問題に目を向けるようになりましたが、その政策は効果的とは言えませんでした。大名貸しに対する徳政命令は、藩財政をさらに悪化させる原因となりました。

一方、国元の藩士の間では、「近思録党」は「藩に殉じた悲劇の士」として語り継がれました。西郷隆盛や大久保利通など、多くの藩士が『近思録』を読み、結党するようになりました。皮肉にも、これらの藩士が後に重豪が寵愛した曾孫・島津斉彬の擁立に大きく貢献することになります。

この事件は、薩摩藩の歴史において重要な転換点となり、後の藩政改革へとつながる大きな出来事でした。

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