鮭 (高橋由一)

高橋由一『鮭』：写実が切り開いた明治洋画

高橋由一の油彩画『鮭』は、明治初期の洋画界において異彩を放つ作品です。東京藝術大学大学美術館所蔵の重要文化財指定作品を含む3点が、由一の真筆として認められています。『花魁』と並び、由一の代表作として知られ、美術の教科書や切手にも採用されるなど、広く親しまれてきました。

『鮭』誕生の背景

由一は、洋画普及のため1873年（明治6年）に画塾「天絵社」を開きます。淡島椿岳、川端玉章といった門弟を指導する傍ら、写実主義を追求し、毎月のように作品展覧会を開催しました。この時期の創作活動は由一にとって最も充実したものであり、『鮭』はこの時期に描かれたと考えられています。

また、画塾での展覧会の他、他の洋画展にも作品を出品しており、未発見の『鮭図』が存在する可能性も指摘されています。

作品の特徴

『鮭』には、荒縄に吊るされた新巻鮭が、半身を切り取られた状態で描かれています。西洋の油絵技術を駆使し、鮭の質感をリアルに表現。由一は、西洋画の「正確さ（写実性）」を伝えるため、誰もが見たことのある食材をあえて画題に選びました。

美術史家の北澤憲昭や吉田亮は、師走に描かれた『鮭』には、お歳暮の贈答品として絵画の新巻を贈るという趣向が込められていたのではないかと推察しています。また、画家ナカムラクニオは、鮭がアイヌ語で「カムイチェプ」（神の魚）と呼ばれることに着目し、洋画という新しい分野を開拓する象徴として採用したのではないかと考察しています。

洋画としては珍しい縦長の構図は、掛軸を飾る日本の習慣の名残とも指摘されています。画材には洋紙と油絵具が使用され、美濃和紙に礬砂を引いていた蕃書調所の影響が見られます。下書きがないことから、実物の鮭を見て描かれたと考えられています。

鱗の緻密なスクラッチ技法は、重要文化財指定作品のみに見られ、アントニオ・フォンタネージの指導によるものとする説もあります。由一は写実性を重視するあまり、署名や落款を作品に記しませんでした。

制作時期と所蔵

東京藝術大学大学美術館の『鮭』は、1897年（明治30年）に同大学が買い入れ所蔵。制作時期は、フォンタネージから指導を受けた1876年（明治9年）9月以降とする説が有力です。吉田亮は、同作品が1878年（明治11年）の油絵縦覧所に出品された『大鮭の図』に該当する可能性を指摘しています。

山形美術館所蔵の『鮭』は、1964年（昭和39年）に発見された『伊勢屋の鮭』と呼ばれています。由一が山形に滞在した時期に制作されたものと考えられていますが、制作時期については諸説あります。

笠間日動美術館所蔵の『鮭』は、1879年（明治12年）から1880年（明治13年）の作品として公表されています。

作品の評価

洋画家の平木政次は、『塩鮭の図』を由一の傑作として絶賛し、その写実力に敬服したと語っています。文学者の芳賀徹は、武士から画家へ転向した由一の気魄が『鮭図』に見られると評しました。美術史家の高階秀爾は、迫真的な描写と空気感の欠如が、作品に独特の緊迫感を与えていると解説しています。

画家ナカムラクニオは、由一の『鮭』を、宗教的な解釈を必要としない、日本人のための「フォトリアリズム」として評価しています。

類似作品

『鮭』の類型作品として、『川鱒図』があります。ただし、この作品は池田亀太郎によるものとする説もあります。

文化研究者の木村毅は、初期美術学校生徒の遺作にも鮭を描いた作品が複数あったことを指摘し、当時「鮭」を画題に選ぶことは珍しいことではなかったと述べています。

高橋由一の『鮭』は、卓越した写実技術と、西洋画普及への情熱が結実した作品です。時代を超えて、私たちに感動を与え続けています。

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