アルシノエー

ギリシア神話には、「アルシノエー」（古希: Ἀρσινόη）という名前を持つ複数の女性が登場します。長母音を省略して「アルシノエ」と表記されることもあります。これらのアルシノエーは、それぞれ異なる物語や系譜に属しており、同一人物ではありません。主な人物像を以下に紹介します。

ドードーニデスのアルシノエー

このアルシノエーは、ゼウスの神託で知られるエーペイロス地方のドードーナにゆかりのあるニュンペーたち、ドードーニデスのうちの一人です。アムブロシエー、プロミエー、キッセーイスといった他のニュンペーたちと共に、幼いディオニューソス神の乳母として養育に携わったと伝えられています。後に、彼女たちはその功績を称えられ、天上に上げられて「ヒュアデス」と呼ばれる星団になったとされています。

ミニュアデスのアルシノエー

プルータルコスの記録によると、このアルシノエーはオルコメノス王ミニュアースの娘たち、通称「ミニュアデス」の一人です。レウキッペー、アルカトエーと姉妹にあたります。ディオニューソスの信仰を拒否した罰として狂気に陥り、姉妹と共に籤引きを行い、当たりを引いたレウキッペーの幼い息子ヒッパソスを無残にも引き裂いて殺害したという悲劇的な物語に関わっています。

レウキッポスの娘アルシノエー

メッセニア地方の王レウキッポスを父に持つアルシノエーです。姉妹にはヒーラエイラとポイベーがいます。このアルシノエーは、医術の神として知られるアスクレーピオスとエリオーピスの母であると語られることがあります。父親はアポローン神とされるため、彼女はアポローンの子を産んだ女性の一人とされます。しかし、一般的にアスクレーピオスの母として最もよく知られているのは、テッサリアー地方の王プレギュアースの娘コローニスです。

古代の地理学者パウサニアースは、アスクレーピオスの誕生に関する三つの説を挙げた上で、アルシノエーを母とする説を最も信頼性に欠けるものとしています。その根拠として、アルカディアー地方の人物アポロパネースがデルポイの神託に真偽を問うた際に、「アスクレーピオスはアポローンとコローニスの子であり、聖なる誕生の地はメッセニアではなくエピダウロスである」という明確な否定の返答があった逸話を引用しています。さらにパウサニアースは、このアルシノエー説が生まれた背景について、詩人ヘーシオドスか他の詩人がメッセニアの人々を喜ばせるために創作したのではないかと推測しています。しかし、メッセニア地方ではこの説が広く信じられていたようで、パウサニアースは彼らが『イーリアス』に登場するアスクレーピオスの子マカーオーンの故郷トリッカと同名の地名がメッセニアにあることや、ネストールがマカーオーンに親切であったことを根拠に挙げていたと記しています。メッセニア地方の都市メッセーネーには、アルシノエーにちなんだ泉があり、市内の神殿に描かれた地元の神話的人物像の中にも、父や姉妹、アスクレーピオスと共にアルシノエーが描かれていました。また、メッセニアに近いラコーニア地方西岸のレウクトラでも、アスクレーピオスの母はアルシノエーだと信じられており、スパルタ市内にはアルシノエーの神域が存在しました。

ペーゲウスの娘アルシノエー

アルカディアー地方の都市プソーピスの王ペーゲウスの娘で、「アルペシボイア」とも呼ばれる女性です。プロノオス、アゲーノール、あるいはテーメノス、アクシオンといった兄弟がいました。彼女は、テーバイ攻めの七将の息子たちであるエピゴノイの一人、アルクマイオーンと結婚し、クリュティオスという息子をもうけました。

アルクマイオーンは自身の母を殺した罪によりエリーニュス（復讐の女神）に追われていましたが、プソーピスに逃れてペーゲウス王によって罪を清められ、アルシノエーと結ばれました。しかし、アルクマイオーンが原因でプソーピスから実りが失われたため、彼はアケローオス川へ向かい、河神アケローオスに再び罪を清められ、その娘カリロエーと再婚します。カリロエーはアルクマイオーンに、父カドモスがハルモニアーに贈った首飾りとペプロス（女性の衣）を求めました。アルクマイオーンはこれを得るためペーゲウスのもとへ戻り、神への供物だと偽って首飾りを持ち去ろうとしましたが、嘘が露見し、ペーゲウスの息子たちによって殺害されてしまいました。夫の死を知ったアルシノエーが兄弟たちの行動を強く非難すると、彼女は箱の中に閉じ込められ、テゲアに運ばれて、アルクマイオーンを殺した罰としてアガペーノール王に奴隷として与えられました。息子クリュティオスは、母の兄弟たちが父を殺害したことを知ると、故郷を離れてエーリス地方へ移住しました。また、アルシノエーには名前の伝わらない娘がおり、ペーゲウスによって殺されたという伝承も一部に存在します。

オレステースの乳母アルシノエー

このアルシノエーは、ミュケーナイの王アガメムノーンとその妻クリュタイムネーストラーの息子、オレステースの乳母を務めた女性です。クリュタイムネーストラーが夫アガメムノーンとトロイアの王女カッサンドラーを殺害した際、オレステースが母の企みや報復から免れるよう、彼を救い出した人物として知られています。太陽系の小惑星帯に存在する小惑星「アルシノエ」（(404) Arsinoë）は、このオレステースの乳母アルシノエーにちなんで名付けられました。

ニーコクレオーンの娘アルシノエー

キュプロス島の都市サラミースの王ニーコクレオーンの娘です。彼女は、トロイア戦争の英雄テウクロスの末裔にあたるとされる家系の人物です。アルシノエーは非常に美しい女性でしたが、同時に傲慢な心を持っていました。フェニキア人の青年アルケオポーンが彼女に熱烈な求婚をしましたが、身分が違うことを理由に父ニーコクレオーンは結婚を許しませんでした。しかし、アルケオポーンの情熱があまりにも強かったため、アルシノエーの乳母が二人の仲を取り持とうとしました。ところが、アルシノエーはその試みを父に密告してしまいます。これを知ったニーコクレオーンは、乳母に残忍な仕打ちをして追放しました。やがて、アルケオポーンは報われない恋の激しい苦悩から深い不安に陥り、食事を断って餓死してしまいます。人々がアルケオポーンを火葬しているのを見て、アルシノエーは好奇心からかその光景を見たいという欲望に駆られ、館の中から火葬の様子を眺めていました。しかし、愛と美の女神アプロディーテーは彼女のその態度を嫌悪し、アルシノエーを石像に変えてしまったと伝えられています。この物語は、ヘルメーシアナクスという詩人の、現存しない作品『レオンティオン』の中で語られていたとされています。

これらのアルシノエーたちは、それぞれ独立した存在であり、ギリシア神話の多様な物語世界に彩りを添えています。

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