インド・グリーク朝

インド・グリーク朝：ヘレニズム文化が花開いたインド亜大陸の王国

インド・グリーク朝は、紀元前2世紀頃から西暦1世紀頃まで、現在のインド亜大陸北西部に勢力を持ったギリシア人諸王国の総称です。この地域には、アレクサンドロス大王の東方遠征以降、ギリシア人が移住・定住していましたが、グレコ・[[バクトリア王国]]のデメトリオス1世によるインド侵入を機に、有力な勢力として台頭しました。彼らの王国は、サカ人などの侵入によって徐々に衰退しましたが、その文化はインドに大きな影響を与えました。

歴史的背景と記録

インド・グリーク朝に関する記録は、メナンドロス1世（ミリンダ）のような例外を除き、非常に少ないのが現状です。彼らについて知るための主な手がかりは、各地で発行されたコイン、わずかに残る碑文、ギリシアやローマの学者による書物、仏典などに残された記録です。しかし、これらの記録は質・量ともに十分とは言えず、インド・グリーク朝の歴史を解明するには、さらなる研究が必要です。インドの記録では、彼らは「ヨーナ」または「ヤヴァナ」と呼ばれており、これは古代ギリシアのイオニア地方に由来すると考えられています。

コインが語る歴史

インド・グリーク諸王国が発行したコインは、インド社会に大きな影響を与えました。王の肖像や神々、称号が刻まれたコインは、インドにおける貨幣のモデルとなり、その習慣はインド・グリーク朝が滅亡した後も長く存続しました。これらのコインは、古代インド史の研究において非常に貴重な資料であり、広範囲かつ長期間にわたって流通しました。驚くべきことに、遠く離れたイギリスでも発見例があり、古代ローマ時代の収集家が所有していた可能性が指摘されています。

ギリシア人の移住とアレクサンドロス大王

ギリシア人がインド亜大陸に移住を始めた時期は正確には分かっていませんが、アケメネス朝がインダス川流域に進出した紀元前6世紀末から紀元前5世紀初頭にかけて、移住が行われた可能性があります。しかし、インド亜大陸におけるギリシア人の活動が本格化するのは、アレクサンドロス大王の東方遠征以降です。アレクサンドロス大王がペルシア遠征を行っていた頃、北西インドには多くの群小王国が割拠しており、その数は20を超えていたとされます。ポロス王がアレクサンドロス大王に抵抗しましたが、多くの王国はすぐに降伏し、アレクサンドロス大王の支配下に入りました。彼は各地にギリシア人都市を建設し、多くのギリシア人を移住させました。その後、セレウコス朝が成立し、支配権を獲得しようとしましたが、マウリヤ朝によって阻止されました。北西インドに移住したギリシア人は、マウリヤ朝の支配下に入ることになります。

マウリヤ朝治下のギリシア人

マウリヤ朝の勢力範囲内にもギリシア人が存在したことは、アショーカ王の碑文に記録されています。サウラシュートラ半島では、トゥーシャスパというギリシア人王が統治し、アショーカ王の命で水道を敷設しました。他にも、インド北西部にはギリシア人による小王国が散在しましたが、これらはマウリヤ朝の統制下にあり、独立勢力とは言い難い状況でした。

グレコ・[[バクトリア王国]]とインド・グリーク朝の成立

紀元前250年頃、バクトリアに移住したギリシア人たちはディオドトス1世の下で独立王国を形成しました。当初、グレコ・[[バクトリア王国]]は、マウリヤ朝やセレウコス朝の圧力によりインド方面への拡大は限定的でしたが、紀元前200年頃からインドへの勢力拡大を開始します。デメトリオス1世はアラコシアを征服し、ヒンドゥークシュ山脈を越えてパロパミソスを制圧しました。その後、アンティマコス1世の時代には、マウリヤ朝の衰退に乗じてタクシラを占領し、ガンダーラ地方を征服しました。デメトリオス2世の時代には、インド各地で大規模な征服活動が行われましたが、その支配領域は諸説があり、正確にはわかっていません。

グレコ・[[バクトリア王国]]では、紀元前175年頃にエウクラティデス1世が反乱を起こし、デメトリオス2世は本国へ討伐に向かいました。これにより、ギリシア人の勢力はバクトリア部分とインド部分に分裂し、インド部分を支配した諸王国がインド・グリーク朝と呼ばれるようになりました。デメトリオス2世のインドにおける勢力基盤を継承したのは、アポロドトス1世であったと考えられています。

メナンドロス1世：最大の勢力を誇った王

インド・グリーク朝の中で最大の勢力を築き、最も多くの記録を残しているのがメナンドロス1世です。彼はシャーカラ（シアールコット）を都とし、その支配領域は現在のカーブルからバルチ、カシミール、マトゥラーまで広がっていました。メナンドロス1世は、仏教に帰依したことで知られ、仏典『ミリンダ王の問い』にもその名が登場します。彼は、インドで武勇だけでなく、知恵も兼ね備えた哲人王として記憶されています。メナンドロス1世のコインは、その後200年以上にわたって北西インドで流通し、彼の経済力の大きさを物語っています。

インド・グリーク朝の衰退と諸王国の興亡

メナンドロス1世の死後、グレコ・[[バクトリア王国]]は遊牧民の侵入によって崩壊しました。多くのギリシア人がインドに流入し、リュシアス、ゾイロス1世、アンティアルキダスなどの王が各地で勢力を持つようになりました。インド・グリーク朝は、西のアラコシア・パロパミソスを支配する勢力と、東の西パンジャーブ地方を支配する勢力に分裂し、さらに多くの小王国が乱立しました。これらの王国の勢力範囲や年代は諸説あり、記録も少ないため、その歴史はまだ不明な点が多く残されています。紀元前90年以降、インド・グリーク朝の勢力は徐々に衰退し、西暦1世紀初頭までには、支配者としての地位を完全に失いました。

インド・グリーク朝の社会・国制

インド・グリーク朝の社会は、ギリシア人の支配階級と旧来のインド人階級が共存していました。仏典には、ギリシア人の支配下で階級の入れ替わりがあったという記録も残されていますが、インド社会の根幹には大きな影響はなかったとする説が有力です。メナンドロス1世の王国では、ギリシア人が最上位に立ち、その下にインドの王族、バラモン、資産家が続いたと考えられています。メナンドロス1世の側近には、500人ものギリシア人が仕えていました。王権は、バシレウス（王）やバシレウス・メガス（大王）などの称号で表され、時代とともに若干の神格化が見られました。また、インドの王権観の影響も受け、マハーラージャなどの称号も用いられました。インド・グリーク朝の王は、完全な主権を確立していたわけではなく、多くの従属王国が存在していました。地方統治には、郡守（メリダルケス）が派遣され、行政や宗教活動を行っていました。彼らは、実務にはギリシア語を使用しましたが、仏教活動においては現地語を用いていました。

軍事と宗教

インド・ギリシア人は、ヘレニズム風の武装をしていましたが、地域的な影響も受けていました。騎兵が重視され、グレコ・バクトリア王やインド・グリーク王の姿がコインに描かれることもありました。戦象も重要な兵力として用いられたと考えられます。宗教面では、ギリシア神話の神々が崇拝されていましたが、仏教の影響も強く、メナンドロス1世のように仏教に改宗する王も現れました。彼らの宗教観は、インドの土着の神々との混交も見られました。ヘリオドロスというギリシア人がヴァースデーヴァ神を信仰したという記録も残っています。

インド文化への影響

インド・グリーク朝は、インドの美術、特に仏像の成立に大きな影響を与えたと考えられています。ギリシア人の神像表現の技術が、それまで仏陀を象徴的に表していた仏教美術に、初めて仏像という具体的な像をもたらしました。また、コインや行政システムなど、文化の様々な面で、インドに大きな影響を与えました。

歴代の王たち

インド・グリーク朝は、多くの王たちが統治し、分裂と統合を繰り返しました。デメトリオス1世、メナンドロス1世などの有名な王に加え、多数の王がコインや記録に残っています。

これらの王たちの歴史は複雑で、詳細な研究が必要です。しかし、彼らがインドの歴史と文化に大きな影響を与えたことは間違いありません。インド・グリーク朝の遺産は、今もなお、インドの文化の中に息づいています。

参考文献

『中村元選集 第16巻 インドとギリシアの思想交流』（中村元 春秋社 1968年）
『中村元選集[決定版] 第5巻 インド史I』（中村元 春秋社 1997年）
『中村元選集[決定版] 第6巻 インド史II』（中村元 春秋社 1997年）
『中村元選集[決定版] 第7巻 インド史III』（中村元 春秋社 1998年）
『世界の歴史3 古代インドの文明と社会』（山崎元一 中央公論社 1997年）
『アイハヌム 2001』 （加藤九祚 東海大学出版会 2001年）
『アイハヌム 2003』 （加藤九祚 東海大学出版会 2003年）
『NHKスペシャル 文明の道 2 ヘレニズムと仏教』 （前田耕作他 NHK出版 2003年）

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