エリュクス

エリュクス（Eryx）

古代ギリシア神話において、シケリア島西部に位置するエリュモイ人（エリミ人）の王として語り継がれる人物。その出自については複数の伝承があり、アルゴナウタイの一員であったブーテースと美の女神アプロディーテーの子とされる説が最も一般的である。しかし、海神ポセイドーンの子とする系譜も存在し、その神秘的な起源を示唆している。彼の名は、彼が治めたとされるシケリア島の古代都市エリュクス（現在のイタリア、トラーパニ県にあるエリーチェ）および、その都市が築かれた山（現在のサン・ジュリアーノ山）の名称の由来となった。

神話

誕生と王位

エリュクスの父とされるブーテースは、英雄イアーソーン率いるアルゴナウタイの一人であった。航海の途中、船がセイレーンの棲む島の近くを通りかかった際、その魅惑的な歌声に心を奪われたブーテースは、思わずアルゴー船から海に身を投げた。彼はそのままセイレーンの島へ泳ぎ着こうとしたが、彼を救ったのは女神アプロディーテーであった。アプロディーテーはブーテースを助け、シケリア島の西端に位置するリリュバイオンへと導いたとされる。エリュクスは、このブーテースとアプロディーテーの間に生まれた子だと伝えられている。

歴史家シケリアのディオドーロスは、ブーテースをその土地の王であったと記しており、エリュクスは女神アプロディーテーの子として人々から厚く崇拝され、成長して父の地位を継ぎ王となった。彼はその治世において、自身の名にちなんだエリュクス市を創建し、さらに山上に母であるアプロディーテーを祀る聖域「アプロディーテー・エリュキーネー（エリュクスに坐すアプロディーテー）」を建立したとされる。

ヘーラクレースとの対決

エリュクスの物語の中で特に有名なのは、ギリシア最大の英雄ヘーラクレースとの間に起こった出来事である。この対決についても、複数の伝承が残されている。

アポロドーロスによる伝承

ヘーラクレースが、怪物ゲーリュオーンから奪った牛の群れを率いてイタリアを通過していたとき、一頭の牡牛がレーギオン（現在のレッジョ・ディ・カラブリア）から海を渡り、シケリア島のエリュクスの領地へ逃げ込んだ。エリュクスはこの牡牛を見つけ、自身の家畜に加えてしまった。後にシケリア島へ到着したヘーラクレースは逃げた牡牛を発見し、エリュクスに返還を求めた。これに対しエリュクスは、もしヘーラクレースがレスリングで自分に勝つことができれば牛を返すと持ちかけた。英雄の挑戦を受けたエリュクスは、力の限りを尽くして三度挑んだものの、いずれもヘーラクレースに敗れ、命を落とした。彼の遺体は山に葬られ、その山はエリュクスの名を取ってエリュクス山と呼ばれるようになったという。

パウサニアースによる伝承

旅行家パウサニアースは、ゲーリュオーンの牡牛がシケリア島に渡来したのを見たエリュクスが、その素晴らしい牛の群れを大変気に入り、自らの土地すべてと引き換えに、相手の牛の群れを賭けたレスリングの勝負をヘーラクレースに挑んだと記している。この勝負に敗れたエリュクスは殺された。その後、ヘーラクレースはエリュクスの娘プソーピスと関係を持ち、彼女を連れてアルカディア地方へ行き、客人リュコルタースに預けた。プソーピスはヘーラクレースの子エケプローンとプロマコスを生み、二人の息子は成長すると、母プソーピスの名にちなんで自分たちの住む土地の名をプソーピスと改め、そこに母の故郷であるエリュクスのアプロディーテー・エリュキーネーの聖域を創建したという。

ディオドーロスによる伝承

シケリアのディオドーロスの記述では、エリュクスはシケリア島を一周していたヘーラクレースと出会い、その牛の群れと自身の領土すべてを賭けて勝負を挑み、敗れた結果、土地を失ったとされる。しかし、ヘーラクレースはエリュクスの領地を完全に奪うことはせず、将来自身の子孫がこの地を訪れる時まで、一時的に地元の人々に預けて立ち去ったという。後世、この伝説を信じたヘーラクレースの子孫であるヘラクレイダイの一員、スパルタ王家出身のドーリエウスが、この預けられた土地への植民を試みたものの、志半ばで命を落としたと伝えられている。

これらの伝承は、エリュクスがシケリア島の重要な神話的人物であり、特にヘーラクレースという偉大な英雄との関わりを通じて、その名が後世に語り継がれることになった経緯を示している。また、彼の創建した都市や聖域、そして彼の死が山の名となった物語は、古代の人々が土地の由来を神話に求めた証拠と言える。

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