ヌルガン

ヌルガン：黒竜江下流域の歴史的拠点

ヌルガン（中国語: 奴児干/núérgàn、モンゴル語: ᠨᠤᠷᠭᠡᠯ/nurgel、女真語: Nurgan）は、黒竜江下流に位置する歴史的な地名で、現在のロシア連邦ハバロフスク地方ティル村に比定されます。この地は、元朝や明朝の時代において、黒竜江下流域を統括する上で重要な拠点となりました。

ヌルガンの歴史

ヌルガンがいつ頃から集落として機能し始めたのかは明確ではありませんが、少なくとも13世紀、女真族が建てた金朝の時代には既に城が築かれていたことが確認されています。『元一統志』には、金朝の領域に「哈州」と呼ばれるヌルガン城が存在したことが記されています。金朝時代のヌルガン城に関する史料は少ないものの、『金史』には、金の領土が東はギレミ（現在のニヴフ人）やウデカイ（現在のウデヘ人）といった諸民族の境域まで及んでいたことが記されており、ヌルガン城がこれらの民族との交流を管轄する役割を担っていた可能性が指摘されています。

ただし、この時代のヌルガンへの進出は、あくまで女真族の勢力拡大として捉えるべきであり、中国王朝の影響力の拡大と同一視することは適切ではないとする見解もあります。

元朝の東征元帥府

モンゴル帝国は金朝を滅ぼし、遼陽行省を設置。その管轄範囲は黒竜江下流にまで及びました。13世紀半ば以降、元朝は黒竜江下流域を管轄するため、ヌルガンに遼陽行省の下部組織である東征元帥府を設置しました。東征元帥府は、単なる統治機関としてだけでなく、流刑地や屯田地としての役割も担っていたとされています。また、この地域を往来する官吏のために交通路も整備されました。しかし、物資の輸送費が嵩む問題や、1328年の「天暦の内乱」以降の元朝の衰退、1343年の反乱、1359年の紅巾軍の侵入などにより、東征元帥府は14世紀の1368年から1388年の間に消滅しました。

周辺諸民族との関係

『遼東史略』には、遼東がヌルガンに至り、海を渡るとギレミ（ニヴフ）などの諸民族の領域に及ぶと記されており、元朝の影響力が黒竜江下流域に及んでいたことがわかります。東征元帥府は、この地域の冊封体制を管轄し、ニヴフなどの諸民族との外交関係も担いました。また、『高麗史』の記述からは、1287年に東真（金朝の後継国）から高麗に「骨鬼国」の将軍が訪れたとあり、この「骨鬼国」もヌルガン城の影響下にあった可能性が指摘されています。「骨鬼国」の名称は、ツングース系民族が樺太のアイヌ民族を呼んだ名称に由来すると言われています。

1264年から1308年の間、モンゴルは樺太北部に住むギレミ（ニヴフ）の要請を受け、樺太侵攻を複数回実施。樺太南部の「骨嵬（クイ、アイヌ民族）」や「亦里于（イリウ）」と40年以上も戦い、後に和睦し交易を行いました。

明朝の奴児干都司

14世紀後半から15世紀初頭にかけて、明朝は中国本土から元朝を駆逐しましたが、北方ではモンゴル勢力が依然として健在でした。しかし、1388年のブイル・ノールでのモンゴル軍の大敗とモンゴル社会の混乱を機に、明朝は北方への進出を開始。永楽帝の時代には、積極的な対外進出政策がとられ、黒竜江地域の女直人経略が開始されました。

1404年、南満州に建州衛、北満州に兀者衛が設立され、多数の女直人が明朝に朝貢。黒竜江流域には、明朝が設置した羈縻衛所が乱立しました。1409年、明朝は、勢力圏の拡大と兀者諸衛の統御のため、かつて元朝が東征元帥府を設置していたヌルガンに、羈縻衛所を管轄し女真人慰撫にあたる都指揮使司を設置することを決定しました。このヌルガン遠征軍の指揮官に任命されたのが、女直人宦官のイシハでした。彼は永楽年間から宣徳年間にかけて7度にわたりヌルガンを訪れ、1411年に奴児干都司を設置し、永寧寺を建設しました。

奴児干都司は、恒常的な統治を行う行政機関ではなく、明朝に出仕した女真人やモンゴル人が、周辺民族に対する羈縻政策を担いました。イシハの撤収後、明朝がヌルガンに進出することはなくなり、その機能は停止し名目化されました。しかし、永寧寺に併設された「永寧寺碑」は、15世紀初頭の黒竜江下流域一帯の状況を記した貴重な資料として、東北アジア史研究者から注目されています。明朝は7度にわたる遠征にもかかわらず、ヌルガンに恒久的な支配を確立することができず、奴児干都司は1435年に廃止。永寧寺も破壊されました。その後、黒竜江下流域の状況は再び不明となり、17世紀に女真族（後に満洲と改名）が清朝を建国するまで、歴史の表舞台から姿を消しました。

まとめ

ヌルガンは、金朝、元朝、明朝と、各王朝の支配下で重要な役割を担い、周辺民族との交流拠点でした。元朝の東征元帥府、明朝の奴児干都司の設置は、この地の戦略的価値を示すものです。ヌルガンの歴史は、中国東北部と周辺地域の複雑な関係を理解する上で、非常に重要な事例と言えるでしょう。

参考文献

塚瀬進『マンチュリアの社会変容と地域秩序 : 明代から中華人民共和国の成立まで』
『北方世界の交流と変容中世の北東アジアと日本列島』
『北東アジアの歴史と文化』
『中世東アジアの周縁世界』
『東アジア内海世界の交流史』
『中世の北東アジアとアイヌ奴児干永寧寺碑文とアイヌの北方世界』