ヒ素中毒

ヒ素中毒

ヒ素中毒は、ヒ素が体内に取り込まれることによる有害な影響の総称です。ヒ素には強い毒性があり、体内で重要な酵素の働きを妨げることで、様々な臓器に深刻な障害を引き起こします。特に、エネルギー代謝に関わる酵素（リポ酸を補酵素とするピルビン酸脱水素酵素やαケトグルタル酸脱水素酵素など）の機能を阻害するため、ピルビン酸や乳酸といった物質が蓄積し、細胞の機能不全につながります。脳機能への影響も大きく、神経学的な症状が現れることもあります。

急性期の症状

ヒ素を一度に多量に摂取した場合に現れるのが急性中毒です。有名な事例としては、かつて日本で発生した森永ヒ素ミルク中毒事件や和歌山毒物カレー事件などがあります。急性期の症状は多岐にわたり、曝露量や個人の状態によって異なります。

主な症状には以下のようなものがあります。

消化器系：激しい腹痛、腹部の圧痛や膨満感、吐き気、嘔吐（時に血液が混じる）、下痢、しぶり腹（テネスムス）、食道逆流、胸焼け。
口腔・咽頭：唾液の過分泌、口の乾燥感、喉の違和感、声のかすれ、発語困難。
全身症状：発熱、衰弱感、頭痛。
神経・精神系：麻痺、知覚異常、痙攣、筋強直、精神障害、無表情、せん妄、意識混濁。
皮膚：発疹、粘膜疹、四肢の紫斑、末端の表皮剥離、発汗（粘調なもの）。
その他：泌尿器の灼熱感、目の充血、多臓器不全。

和歌山毒物カレー事件の報告では、初期の2週間で胃腸障害や精神神経症状が多く見られ、皮膚の変化や電解質異常、血液・肝機能・心血管系の異常、肺の症状も報告されています。数ヶ月後には、爪の変化（横溝、白線、白斑など）や色素沈着、脱毛症、口内炎といった症状も観察されています。

急性期を乗り越えても、数年から数十年経過した後に慢性期の症状が現れることがあり、これは急性期とは全く異なる病態として扱われます。

慢性ヒ素中毒

高濃度のヒ素を含んだ水を長期間にわたって飲み続けることなどが主な原因で発生するのが慢性ヒ素中毒です。これは、地下水のヒ素汚染が深刻な地域で特に問題となっています。慢性中毒の症状は、ヒ素への曝露が始まってから数年から十数年経過して現れることが多いです。

慢性中毒の最も特徴的な症状は皮膚の変化です。全身の色素沈着（斑点状や広範囲にわたるもの）、白斑（雨だれ状など）、皮膚の肥厚や硬化（角化症）などが現れます。さらに進行すると、ボーエン病や皮膚癌（基底細胞癌、有棘細胞癌）を発症するリスクが高まります。これらの皮膚症状は、ヒ素が体内から消失した後も診断の重要な手がかりとなります。

皮膚以外の臓器にも様々な影響が出ます。肺癌、腎臓癌、膀胱癌といった悪性腫瘍のリスク上昇に加え、肝機能障害（黄疸、肝硬変）、末梢血管障害（手足のチアノーゼ、レイノー現象、ひどい場合には壊疽による手足の切断）、特殊な壊疽である烏脚病（台湾で報告された病気）、貧血なども引き起こされます。特に癌はすぐに発生するわけではないため、皮膚の初期変化を早期に発見し、治療を開始することが非常に重要です。皮膚科医による専門的な診断が必要不可欠となります。

世界保健機関（WHO）は飲料水のヒ素基準値を定めていますが、近年の研究では、その基準値よりもはるかに低い濃度であっても、長期間摂取することで健康被害が生じる可能性が示唆されています。

慢性ヒ素中毒は、バングラデシュなど地下水汚染が深刻な開発途上国で多くの人々に影響を与えています。また、日本では過去の鉱山周辺での公害（笹ヶ谷鉱山、土呂久鉱山）や森永ヒ素ミルク中毒事件などで問題となりました。

ヒ素の曝露源と歴史的背景

ヒ素は自然界に広く存在しますが、人為的な活動によっても曝露する機会があります。

汚染された水・食品: 地下水汚染や、ヒ素を含む農薬・殺虫剤が使用された食品など。
産業・鉱業: 鉱山からの排水や精錬、半導体製造プロセスなどでヒ素化合物が使用されます。
医薬品・化粧品: かつては梅毒治療薬や強壮剤としてヒ素製剤が用いられたり、美白目的の化粧品に含まれたりしました。
顔料: エメラルドグリーン（花緑青）、シェーレグリーンといった緑色の顔料にヒ素化合物が使われ、これに触れたり吸入したりすることで中毒が起きました。
毒物: 無味無臭の三酸化ヒ素は、歴史的に強力な毒薬として暗殺などに用いられました（トッファナ水など）。「相続薬」と呼ばれることもあり、推理小説にもしばしば登場します。

現代では分析技術が進歩し、ヒ素の検出が容易になったため、意図的な毒殺に使われるケースは減少傾向にありますが、事故や環境汚染による中毒は依然として発生しています。

検査と治療

ヒ素中毒が疑われる場合は、速やかに医療機関を受診することが重要です。診断には、血液や尿の検査に加え、ヒ素が取り込まれて長く体内に残る毛髪や爪の分析が有用です。特に急性期にはこれらの検査が有効ですが、慢性中毒で長期間が経過している場合は検出が困難になることもあります。また、汚染源の特定も再曝露を防ぐために重要です。

治療としては、体内のヒ素を排出させるためのキレート剤が用いられます。ジメルカプロールやジメルカプトコハク酸（DMSA、Succimer）などが代表的ですが、副作用（特に高血圧）にも注意が必要です。代替療法として、ニンニク抽出物に含まれる硫黄化合物がヒ素の排出を促進するというラットでの研究報告もあります。

有名な中毒事例

歴史上の人物や動物の中にも、ヒ素中毒が疑われたり、確認されたりした事例があります。

ジョージ3世: イギリス国王。精神疾患の原因として、治療薬に含まれたヒ素の混入が疑われています。
ナポレオン・ボナパルト: セントヘレナ島での幽閉中の死因の一つとして、慢性的なヒ素曝露が指摘されています。壁紙の顔料や土壌からの移行などが原因として考えられています。
チャールズ・フランシス・ホール: アメリカの探検家。北極探検中に急死しましたが、遺髪から高濃度のヒ素が検出され、毒殺の可能性が示されています。
クレア・ブース・ルース: イタリア駐在アメリカ大使。大使館の天井塗料に含まれるヒ素による慢性中毒で健康を害しました。
印象派の画家: モネやゴッホなど、ヒ素を含む顔料（パリスグリーン）を使用していた画家たちの健康問題（糖尿病、視力障害、神経症状）との関連が指摘されることがあります。
* ファーラップ: オーストラリアの有名な競走馬。1932年に急死しましたが、後に毛髪から多量のヒ素が検出され、中毒死であったことが判明しました。

ヒ素中毒は、その多様な症状と原因から、歴史的にも現代においても、公衆衛生上の課題であり続けています。

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