マハートマー書簡

マハートマー書簡とは

マハートマー書簡とは、神智学協会に端を発する近現代の神智学運動において、「大師」または「マハートマー」と呼ばれる霊的な指導者から授かったと主張される手紙のことです。近代神智学の創始者であるヘレナ・P・ブラヴァツキー（ブラヴァツキー夫人）は、ヒマラヤ奥地やチベットに住む大師たちと超自然的な方法で通信できると主張しました。また、大師たちはブラヴァツキー以外の人物にも手紙を送ることがあり、インドにおけるブラヴァツキーの弟子、アルフレッド・パーシー・シネットもマハートマーとの通信に関わりました。

マハートマーからの手紙の出現は様々で、いつの間にか枕の下や机の上に置かれていることが多かったとされます。ブラヴァツキーは、天井から手紙が落ちてくるという「奇跡」も演出しました。

神智学におけるマハートマー

マハートマー（mahātmā）はサンスクリット語で「偉大な魂」を意味します。神智学では、人類の霊的進化を導く導師たちが存在するとされ、彼らがマハートマー、または大師と呼ばれます。ブラヴァツキーがインドで活動していた頃には、モリヤ、クートフーミ、ヒラリオン、マハーチョーハンなどが主なマハートマーとされ、彼らはチベットに住んでいるとされていました。

大師という概念は、ブラヴァツキーの意図を超えて神秘的な様相を帯び始めました。古代の叡智を伝え守るとされるマハートマーは、秘密結社グレート・ホワイト・ブラザーフッド（大白色同胞団）に属し、大賢者としてゴータマ（釈迦）から伝わる大宇宙の秘儀に通じているとされました。また、神智学の教義の拡張（ネオ神智学）に伴い、イエス・キリストやマイトレーヤ（弥勒）も大師とされるようになりました。アリス・ベイリーは、大師たちの本拠地はゴビ砂漠のシャンバラにあるとしました。

神智学の研究者であるK・ポール・ジョンソンは、ブラヴァツキーの大師たちは実際には霊的な超人ではなく、同時代に実在した人物であると考えています。彼の説によれば、エル・モリヤはカシミールの藩王ランビール・シン、クートフーミは当時のシク教指導者タクール・シンであり、いずれもブラヴァツキーのインドでの活動を支援していた人物だったとされています。

A・P・シネット宛マハートマー書簡

ブラヴァツキーの弟子であった英国人アルフレッド・パーシー・シネットも、マハートマーからの手紙を受け取ったと主張しました。1880年秋、シムラにあるシネットの別荘に滞在していたブラヴァツキーに、シネットは自身もマハートマーと通信できるかどうかを尋ね、マハートマー宛の手紙を託しました。数日後、クートフーミ大師からの返信が机の上に置かれていたとされています。以来数年間、大師からの手紙が次々とシネットに届けられ、多くはアポーツ（物品引き寄せ）のような形で出現したとされています。これらの書簡をもとに、シネットは『秘められた世界』（1881年）と『秘伝仏教』（1883年）を著し、ブラヴァツキーの奇蹟譚やマハートマー書簡に記された神智学の教義を英語圏に広めました。シネットが1880年から数年間に受け取った100通以上の手紙は、『A・P・シネット宛マハートマー書簡』としてまとめられました。

クーロン事件とホジソン報告

1882年末、マドラス（現チェンナイ）近郊のアディヤールに神智学協会本部が設立されました。そこにはブラヴァツキーの居室の隣に厨子があり、この厨子からもマハートマー書簡が出現するようになりました。しかし、協会本部の職員であったエマ・クーロンとその夫は、ブラヴァツキーの起こした現象はトリックであると主張し、ブラヴァツキーがクーロン夫妻に「奇跡」を起こすよう指示した手紙を証拠として提出しました。

このクーロン事件を受けて、心霊現象研究協会（SPR）はブラヴァツキーと神智学協会を調査するため、リチャード・ホジソンを派遣しました。1885年、ホジソンは協会本部の厨子にマハートマー書簡出現の仕掛けがあったことや、書簡の筆跡がブラヴァツキーのものと同一であることを報告しました。これにより、ブラヴァツキーは詐欺師であると断定され、ロシアのスパイであるとも考えられるようになりました。神智学協会側はこれを否定しましたが、心霊現象研究協会の社会的信頼は高く、神智学協会は大きな打撃を受けました。

1986年、心霊現象研究協会のヴァーノン・ハリソンは、ホジソンの調査には認知バイアスがかかっていたと指摘し、クートフーミの手紙はブラヴァツキー自身が書いたものではないと判断しました。神智学・人智学を日本に紹介した高橋巖は、心霊現象研究協会がブラヴァツキーに謝罪したという伝聞を伝えています。しかし、ブラヴァツキーの口述を誰かが清書したという疑いは依然として残っており、側近や神智学協会幹部の関与を疑う説もあります。人類学者の杉本良男は、クートフーミの手紙は、ブラヴァツキーの側近ダモダル・マーワランカルがアルフレッド・パーシー・シネットと交流があった時期に限定されており、ダモダルがチベットに大師を探しに行った後に消息を絶つと手紙も途絶えたため、関与があった可能性を指摘しています。

マハートマー書簡に対する意見は現在も様々ですが、この事件の背景には、大英帝国とロシア帝国がチベット・中央アジアでの覇権を争った「グレート・ゲーム」がありました。多くのエリート・キリスト教徒が反英ナショナリズムの立場から神智学協会に参加しており、危機感を感じていたキリスト教ミッションと、神智学協会に対抗心を持っていたイギリスの心霊現象研究団体が、スキャンダルを利用したと考えられています。杉本良男は、グレート・ゲームにおける諜報戦では、ブラヴァツキーのような聖者、霊媒も重要な役割を果たしたと指摘しています。

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