ムーサ (ティントレット)

ティントレット作「ムーサ」について

作品概要

『ムーサ』（伊: Le Muse, 英: The Muses）は、ルネサンス期のヴェネツィア派の巨匠、ティントレットが1578年に制作した油彩画です。ギリシア神話に登場する文芸と芸術を司る9人の女神ムーサを主題としています。この作品は、同じくティントレットによる『アハシェロス王の前のエステル』と共に、マントヴァのゴンザーガ家、イングランド国王チャールズ1世のコレクションに収蔵されていたことが知られています。現在は、ロンドンのケンジントン宮殿に所蔵されているロイヤル・コレクションの一つとなっています。

主題

ギリシア神話において、ムーサは主神ゼウスと記憶の女神ムネモシュネの娘たちです。ヘシオドスの『神統記』によれば、彼女たちはトラキア地方およびボイオティア地方のヘリコン山と深く結びつき、詩人たちの霊感の源とされてきました。古典期以降、芸術との関連からアポロン神と結びつけられ、彼の従者として描かれることが多くなりました。ローマ時代には、9人のムーサそれぞれに文芸の分野が割り当てられ、カリオペは叙事詩、クレイオは歴史、エウテルペは抒情詩と笛、タレイアは喜劇、メルポメネは悲劇、テルプシコラは合唱抒情詩と竪琴、エラトは独唱歌と舞踏、ポリュムニアは讃歌、ウラニアは天文詩を司るとされました。

作品の詳細

ティントレットは本作において、アポロンと楽器を演奏するムーサたちを描いています。画面中央に太陽として描かれているのがアポロンです。ムーサたちの特定は難しいですが、叙事詩を司る長女カリオペは、画面中央でチェンバロまたはクラビチェンバロを演奏している女神であると考えられます。歴史を司り巻物や書物をアトリビュートとするクリオは、カリオペの左斜め下で書物を開いています。天文詩を司るウラニアは、画面下辺でコンパスを持って横たわっています。ティントレットは、1556年に出版されたヴィンチェンツォ・カルターリの図像集『古代人たちの神々の姿について』を参考にしたと考えられています。

この図像集ではムーサは区別されていませんが、花輪や月桂樹、ナツメヤシの葉といった細部が描かれています。本作品でムーサと関連付けられている楽器は、チェンバロ、バス・ヴィオラ、リュート、リラ・ダ・ブラッチョに限られています。これらの楽器は音楽家でもあったティントレットによって、丁寧に描かれています。チェンバロは、同時代の楽器と比較できるほど正確に描かれていますが、一部省略された箇所も見られます。

ティントレットは、演奏の正確さよりも、ダイナミックに回転する身体の動きを重視しており、画面全体に活力が溢れています。様式的には、ドゥカーレ宮殿のために制作された寓意画連作に近いものがあります。人物像は力強く形作られ、右からの強い光によって照らされています。画面を横切る対角線上に配置され、大雑把な筆致で大胆に描かれています。

女神たちのポーズには、同時代の彫刻家ジャンボローニャの影響が指摘されています。特に、画面右の背面像のムーサは、ジャンボローニャの『ヴィーナス・グロティチェッラ』との関連が指摘されています。また、画面左の飛行するムーサは、ジャンボローニャの『ヘラクレスとリカス』のリカスに由来すると考えられています。ティントレットはジャンボローニャの彫像を収集し研究していたことが知られており、その影響は本作を含む1570年代の絵画に見て取れます。

来歴

『ムーサ』は『アハシュエロス王の前のエステル』とともにゴンザーガ家のコレクションに収蔵されていました。おそらく、第3代マントヴァ公爵グリエルモ・ゴンザーガの時代にコレクションに加えられたと考えられます。ゴンザーガ家は音楽の伝統が強く、グリエルモ公爵自身も典礼音楽に関心があったため、音楽を司るムーサを主題としたこの絵画は、彼に相応しいものでした。絵画に関する最初の確実な記録は、1627年に作成されたマントヴァ公爵フェルディナンド・ゴンザーガの死後の目録に記載されています。

その後、2つの絵画はイングランド国王チャールズ1世に購入され、1639年にグリニッジ宮殿の女王の応接室を飾る絵画として記録されました。チャールズ1世が処刑された後、一時的に売却されましたが、チャールズ2世の復位後に回収され、1666年のホワイトホールの目録に記載されました。

ヴァリアント

アムステルダム国立美術館には、ティントレットによるリュートを演奏するムーサの断片が所蔵されています。これは、より大きなヴァリアントの断片と考えられています。また、インディアナポリス美術館には、おそらくティントレットの息子のドメニコ・ティントレットによる複製が所蔵されています。ドレスデンには、かつてアポロンとムーサ、三美神を描いたヴァリアントが存在しましたが、第二次世界大戦で失われました。

まとめ

ティントレットの『ムーサ』は、ギリシア神話の女神たちを卓越した技量で描いた、ルネサンス美術の傑作です。そのダイナミックな構図や人物描写は、後世の芸術家たちにも大きな影響を与えました。この作品は、美術史における重要な位置を占め、現在も多くの人々を魅了し続けています。

脚注

参考文献
ヘシオドス『神統記』廣川洋一訳、岩波文庫（1984年）
カール・ケレーニイ『ギリシアの神話 神々の時代』植田兼義訳、中公文庫（1985年）
呉茂一『ギリシア神話（上）』、新潮文庫（1979年）
高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』、岩波書店（1960年）

外部リンク

* ロイヤル・コレクション・トラスト公式サイト, ティントレット『ムーサ』

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