ラシード・ウッディーン・スィナーン

ラシード・ウッディーン・スィナーン（アラビア語: رشيد الدين سنان）は、12世紀後半にシリア地域で活動したイスマーイール派ニザール派の指導者（ダーイー）です。その活動期間は正確には不明ですが、生年は1125年から1135年の間、没年は1192年または1193年とされています。本名はアブー・アル＝ハサン・スィナーン・イブン＝スレイマン・イブン＝ムハンマド・アル＝バスリであり、ラシード・ウッディーン・スィナーンは通り名（ラカブ）です。「アル＝バスリ」は、出身地であるメソポタミア南部の都市バスラに由来します。

スィナーンはバスラ近郊のイスマーイール派の家庭に生まれました。若い頃にニザール派の教えに深く傾倒し、北部イランにあるニザール派の中心拠点アラムート城砦で教育を受けました。1162年、アラムートの指導者ハサン2世によってシリアへ派遣されます。当時、シリアのニザール派は指導者の死によって混乱しており、アラムートから派遣されたスィナーンがその後継者として指名され、およそ30年にわたりシリアのニザール派を指導することになります。

12世紀後半のシリアは、政治勢力が複雑に入り乱れた状況でした。かつて広大な勢力を誇ったファーティマ朝は衰退し、スンナ派のザンギー朝、ヨーロッパからの十字軍国家、そしてファーティマ朝の実権を握り後にアイユーブ朝を興すサラーフッディーン勢力が覇権を争っていました。イスマーイール派内部でも、シリアではムスタアリー派が優勢であり、ニザール派は劣勢に立たされていました。このような厳しい環境の中、スィナーンはシリア中部のジャバル・バフラー山中にあるいくつかの城砦を拠点として、ニザール派勢力の再組織化を進めます。特に彼が力を入れたのが、フィダーイーと呼ばれる自己犠牲を厭わない精鋭部隊の育成でした。

スィナーンは、フィダーイーを用いた戦闘や暗殺活動に加え、シリアの様々な勢力との間で巧妙な外交を展開しました。スンナ派を厳格に奉じるザンギー朝のヌールッディーンはニザール派を十字軍以上の脅威とみなし、執拗な攻撃を仕掛けていました。これに対し、スィナーンは十字軍と暗黙の連携を図り、一時はエルサレム王アモーリー1世との正式な同盟交渉にまで乗り出しています。1174年にヌールッディーンが没すると、今度は新興勢力であるサラーフッディーンがニザール派にとって最大の脅威となります。スィナーンは一転して旧敵であるザンギー朝勢力と同盟を結び、1176年までに二度にわたりサラーフッディーンの暗殺を試みましたが、いずれも失敗に終わりました。

サラーフッディーンは報復としてニザール派のマスヤーフ城砦を包囲しますが、すぐに休戦が成立し、敵対関係は短期に終わりました。この攻防戦にまつわる有名なエピソードとして、スィナーンが単身でサラーフッディーンの厳重な警備をかいくぐり、その寝所に毒ケーキと毒塗りの短剣、そして警告文を置いて去ったという話があり、サラーフッディーンはこの出来事に恐怖を感じて兵を引いたと伝えられています。その後、シリアのニザール派を取り巻く状況は比較的安定しましたが、1187年にサラーフッディーンがエルサレムを奪還し、1189年に第三回十字軍が始まると、十字軍の活動が再び活発化します。この頃にはニザール派と十字軍の関係は悪化しており、スィナーンは共通の敵である十字軍に対抗するため、かつての敵であったサラーフッディーンと同盟を結んだ模様です。そして、十字軍国家の指導者に対するフィダーイーの派遣が行われたと考えられています。1192年に発生したモンフェラート侯コンラート1世の暗殺も、ニザール派のフィダーイーによる犯行とされています。このように、スィナーンとサラーフッディーンは互いに仇敵でありながら、状況に応じて同盟を結ぶという柔軟な関係を築きました。これは両者が互いの勢力と脅威を深く認識していたからこそ可能であったと言えるでしょう。サラーフッディーンに批判的な歴史家の中には、サラーフッディーンがスィナーンを唆して暗殺を実行させたと主張する者もいます。

スィナーンはシリアの情勢において大きな役割を果たしましたが、ニザール派の教義面への貢献はあまり伝えられていません。アラムートのハサン2世が1164年にキヤーマ（復活、終末）を宣言したことに対し、スィナーンは独自の教義を打ち立てたとも言われていますが、彼自身がイマーム（最高指導者）を称したという記録はありません。このことは、教義上の対立というよりも、スィナーンがアラムートからの独立した指導を目指していた傾向を示唆しています。

スィナーンによるシリア・ニザール派の再組織化において最も重要な要素は、フィダーイーの育成と活用でした。彼らの卓越した自己犠牲と戦闘能力は、特に十字軍兵士に恐れられました。この恐怖がヨーロッパに伝わる過程で、やがてニザール派を「暗殺教団」とする伝説が生まれ、その指導者であるスィナーンは「山の老人」（Shaykh al-Jabal, Old Man of the Mountain）という神秘的な存在として知られるようになります。この伝説は時代とともに変容し、様々なフィクション作品に影響を与えました（例: アサシンクリードシリーズ）。

ラシード・ウッディーン・スィナーンは、複雑なシリア情勢を巧みに乗り切り、ニザール派を無視できない勢力に育て上げた戦略家であり、その活動は後世にまで大きな伝説を残しました。彼は遅くとも1193年までに世を去ったと考えられています。

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