井上孝平

明治から昭和時代にかけて活躍した囲碁棋士、井上孝平（いのうえ こうへい）は、1877年（明治10年）に埼玉県入間郡高麗村で生を受けました。その生涯は1941年（昭和16年）2月11日に幕を閉じますが、囲碁界において特異な存在感を放ちました。

幼い頃から囲碁に親しみ、「入間の郡代小僧」としてその才能は早くから周囲に知られていました。17歳頃になると、プロの道を志し、岩佐銈と共に方円社の巌崎健造の門を叩き、見習い初段となります。また、同時期に本因坊秀栄からも教えを受けました。1900年には方円社から正式に初段を認められます。

井上孝平の経歴で特筆すべきは、当時としては極めて珍しい大学卒業という学歴です。彼は1900年に國學院大學を卒業後、当初は文筆の世界、特に脚本家や新聞記者を目指していました。しかし、最終的には囲碁の道を選び、棋士として歩むことになります。

棋士としての実力を磨くため、1905年から翌年にかけて関西地方を巡る行脚に出ました。この武者修行で棋力を大きく向上させ、帰京後、先輩である岩佐銈五段と三段格の手合で対局。この棋譜が東京日日新聞に掲載される際に、三段免許を受けることを勧められ、本因坊秀元の門下として正式に三段に昇段しました。これにより、彼は方円社と本因坊門という、当時の囲碁界の二大勢力の双方に繋がりを持つことになります。

また、本因坊家継承問題のような囲碁界の大きな出来事においても、彼は本因坊秀哉が主宰する囲碁研究会に所属しながら、秀哉と対立する雁金準一の敲玉会とも交流を持つなど、独特の立ち位置にありました。この多面的な人脈は、彼の異色の経歴と無関係ではないでしょう。

棋士としての実績も積み重ねました。1908年には時事新報の敗退碁で5人抜きを達成。1909年には石井千治らが結成した囲碁同志会に参加するなど、組織活動にも関わります。また、本因坊秀哉の側近として、新聞紙上での囲碁の講評を多数執筆し、その文才を活かしました。

順調に昇段を重ね、1912年（大正元年）に四段、1919年には五段となります。しかし、囲碁人生に転機が訪れます。1922年、本因坊秀哉に無断で山陽新聞主催の棋戦に参加したことが原因で破門されてしまいます。この影響もあり、1924年に設立された日本棋院への参加は見送りました。

破門後は、定まった所属を持たない「囲碁界の浪人」として、高部道平らと共に地方を漫遊する生活を送りました。晩年となる1941年に日本棋院から六段を贈られますが、同年、生涯を終えました。

井上孝平は、その豪放磊落な人柄と、機知に富んだ弁舌で知られていました。棋風としては、特に「下手打ち（相手の格下に合わせて故意に手を抜くこと）」が天下一品と評され、その人間味あふれる一面を示すエピソードと言えるでしょう。囲碁界での通称は親しみを込めて「井の孝」と呼ばれていました。

彼の門下からは小杉丁（後の小杉直楓）や篠原正美といった棋士が育ちました。また、長女の勝子も小杉夫人として、そして小杉勝子という名前で棋士（喜多文子門下）として活躍し、さらにその子供である小杉清、小杉勝も棋士になるなど、井上家は囲碁一家として繋がっていきます。

井上孝平の棋士人生で特に重要な出来事の一つに、1927年の中国訪問があります。北京で当時まだ14歳だった若き呉清源と対局し、最初は二子で、続いて先（互先）で1勝1敗という結果を残しました。この対局の棋譜を見た瀬越憲作が呉清源の才能に注目し、その後の呉清源の来日、そして日本での歴史的な活躍へと繋がるきっかけを作ったのです。

また、日本の近代囲碁史に多大な貢献をした大倉喜七郎伯爵が囲碁を始めた際の最初の教授でもあったと言われています。異色の経歴、両派との関わり、波乱に満ちた後半生、そして後の偉大な棋士との繋がりなど、井上孝平はその個性的な生涯を通じて、明治から昭和初期の囲碁界に確かな足跡を残しました。

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