井上幻庵因碩

井上幻庵因碩（いのうえげんあん（げんなん）いんせき）

井上幻庵因碩は、江戸時代後期の囲碁棋士で、井上家十一世因碩、八段準名人です。本名は不明で、幼少期から井上家に入り、厳しい修行を積みました。井上家は代々「因碩」を名乗ったため、隠居後の号である「幻庵」を付けて幻庵因碩と呼ばれています。その棋力は名人級と評されながらも、名人となることはありませんでした。本因坊元丈、安井知得仙知、本因坊秀和とともに「囲碁四哲」と称されています。

生涯

出生地や実名は不明ですが、武家の出身であるとされています。6歳で井上家の外家である服部因淑に入門し、12歳で初段に。その後、服部家の養子となり服部立徹と改名しましたが、後に井上家の跡目となり井上安節を名乗りました。幼少期からの厳しい修行により、この時には奥歯が4本抜けていたという逸話が残っています。1819年には御城碁に初出仕し、本因坊元丈に勝利。この碁は元丈自身も生涯最高の出来と語ったと伝えられています。

1824年には、十世井上因碩が隠居したため家督を継ぎ、十一世井上因碩となりました。同時期に六段に昇段し、その実力は周囲から高く評価されました。特に、安井仙知との対局では「黒打方極妙」と評されるほどの妙手を連発しました。

丈和との暗闘

幻庵因碩は、本因坊丈和との間で名人碁所を巡る激しい暗闘（天保の内訌）を繰り広げました。幻庵と丈和は、互いに切磋琢磨し、数多くの対局を重ねました。当初、幻庵は丈和に次ぐ実力者と見られていましたが、丈和が先に名人碁所に就位。しかし、丈和は以前の密約を破り、幻庵は碁所就位を求めて運動を起こしました。この対立は、当時の囲碁界を揺るがす大きな騒動となりました。最終的に、幻庵は本因坊秀和との争碁に敗れ、名人碁所を断念することとなりました。

晩年

晩年は、門弟の育成に力を注ぎました。また、秀和との対局では「耳赤の一局」と呼ばれる名局を残しています。さらに、江戸城火災の際に、幕府の政策を批判する上書を提出したことで、一時的に閉門処分を受けました。しかし、その後、幕府が政策を改めたことで名声は大いに高まりました。

1848年に隠居し、幻庵を号しました。その後、井上家では後継者問題が起こり、幻庵は林家の門弟を井上家十三世因碩としました。1853年には、弟子の三上豪山と共に清国への渡航を企てましたが、暴風雨により挫折しました。帰路の資金難から、九州地方で免状を乱発したため、実力の伴わない初段を「因碩初段」と呼ぶようになったという逸話も残っています。

1859年に亡くなり、諡は方義。自身を兵法家と任じており、「孫子」「論語」などにも精通していました。幻庵因碩の棋譜を調べた丈和は、「因碩の技、実に名人の所作なり」と評したと伝えられています。

2016年には日本棋院囲碁殿堂入りを果たしました。

棋風

幻庵因碩の碁は、盤面全体を大きく捉えるスケールの大きさが特徴です。序盤から積極的に模様を広げ、相手にプレッシャーを与えながら、終盤には正確なヨセで勝利を掴むという、豪快かつ緻密な碁風でした。

著作

幻庵因碩は、棋譜の評を記した『囲碁妙伝』をはじめ、多くの著作を残しています。『囲碁妙伝』には、「局前無人局上無石」という有名な言葉が記されており、後の棋士にも大きな影響を与えました。

御城碁成績

1819年（文政2年）二子1目勝本因坊元丈
1820年（文政3年）先番11目勝林元美
1821年（文政4年）先番12目負本因坊丈和
1822年（文政5年）二子中押勝安井知得仙知
1823年（文政6年）先番2目勝服部因淑
1824年（文政7年）先番2目勝本因坊元丈
1825年（文政8年）向二子中押勝林伯悦
1826年（文政9年）先番13目勝安井知得仙知
1830年（天保元年）向二子中押負安井俊哲
1832年（天保3年）向二子中押負林伯栄
1836年（天保6年）白番ジゴ安井俊哲
1842年（天保13年）白番1目負安井算知
同年白番4目負本因坊秀和

代表局

秀和との争碁第1局（1840年）では、打ち掛けの末に敗れ、碁所を断念しました。しかし、その2年後には、秀和との再戦で名局を打ちました。この碁では、序盤から大胆に模様を広げ、終盤まで優勢に進めましたが、最後は秀和の粘り強い打ち回しにより、6目負けとなりました。この一局は、幻庵の名局として後世に語り継がれています。

世系書き換え

井上家は元々井上玄覚因碩を一世としていましたが、幻庵因碩は井上家の家格を上げるために、玄覚因碩の師である二世名人中村道碩を井上家一世とする書き換えを行いました。これにより、幻庵因碩は家督を継いだ際には十世でしたが、後に十一世を名乗るようになりました。

また、名人（九段）と上手（七段）の間の段位を「半名人」（八段）と呼んでいたのを、「準名人」という呼び方に改めたのも幻庵因碩です。

参考文献

安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
林裕、橋本宇太郎、志智嘉九郎『幻庵因碩日本囲碁大系(11)」筑摩書房 1975年 ISBN 4480691111
江崎誠致「名棋士物語幻庵因碩」（『棋道』1982年2月号）
福井正明『幻庵因碩打碁集-局前人なく局上石なし』誠文堂新光社 2005年（1809-1857年の棋譜155局を収録）ISBN 4416705034
幻庵因碩『囲碁妙伝(上)(下)』高木祥一編教育社 1991年 ISBN 4315510777, 4315510785
『囲碁妙伝』（囲碁名著文庫10）池田書店　1983年
安倍吉輝『英傑幻庵因碩』日本棋院 2001年