人情本

人情本：江戸庶民の恋愛模様を描く風俗小説

江戸時代後期、庶民の恋愛をテーマにした読み物として大流行した「人情本」。文政年間から天保年間にかけて最盛期を迎え、明治初期まで愛され続けました。女性読者を中心に広く親しまれた、写実的な風俗小説と言えるでしょう。

人情本の名称と成立

「人情本」という名称の初出は、為永春水（にせなんせんしょうそまんじん）の『婦女今川』（1828年）に遡ります。春水自身は、『春色梅児誉美』（1833年）の序文で「江戸人情本元祖」を自称しています。その後、春水とその弟子たちが用いたこの名称が、次第にこのジャンルの固有名詞として定着していきました。

人情本の形態と出版

人情本は、美濃紙を使用した中本型と呼ばれる判型で印刷されました。左右2ページを1枚の紙に刷り、二つ折りにして数十枚を袋綴じにするのが一般的でした。当時、同じ中本型である滑稽本と共に「中本」と呼ばれていました。

人情本の歴史と隆盛

人情本の最初の作品としては、十返舎一九の『清談峯初花』（1820年）や、滝亭鯉丈・為永春水合作の『明烏後正夢』（1820年）が挙げられます。天保年間には最盛期を迎え、曲山人や為永春水らが数々の作品を発表し、大きな人気を博しました。特に為永春水は、『吾嬬春雨』『春色梅児誉美』などで高い評価を得ています。春水の弟子である松亭金水や鼻山人も多くの作品を生み出しました。しかし、天保の改革による弾圧を受け、春水が処罰されたことを境に勢いは衰え、明治初期にその歴史に幕を閉じました。

人情本の作風と解釈

人情本の作風は独特です。恋愛や遊郭での遊びを主な題材としながらも、それらを全面的に肯定しているわけではありません。物語の展開は複雑で、例えば、商家の長男が家督を譲るためにわざと放蕩し、許嫁と浮気相手との三角関係に陥るといったパターンが多く見られます。主人公たちは葛藤や苦悩を経験しますが、最後は許嫁が正妻、浮気相手が妾となり、主人公が家督を継ぐという、一見ハッピーエンドとも取れる結末を迎えることが多いです。

井上泰至は、人情本が読者に主人公たちへの共感と陶酔を促し、困難を乗り越えれば幸せが得られるという希望を与えたと評しています。一方、棚橋正博は、人情本が「寸止め」の手法を用いてラブシーンのクライマックスを避けることで、読者の想像力を掻き立てる一方、性的な描写を抑制している点に着目し、春画や春本との関連性を指摘しています。また、人情本をポルノグラフィーとして位置づける研究者への批判も行っています。

青山学院大学名誉教授の武藤元昭は、人情本を特徴づけるのは「いき」ではなく「あだ」であると指摘しています。「いき」が粋な行動を指すのに対し、「あだ」は可愛らしさやいたずらっぽさといった、より複雑な感情を表す言葉だからです。

人情本の代表的な作品と作者

人情本には多くの名作が生まれました。代表的な作品とその作者を以下に挙げます。

『清談峯初花』：十返舎一九
『松操物語』：一筆庵主人
『玉散袖』：鼻山人
『朧月夜』：十返舎一九ほか
『園曙』：梅暮里谷峨
『風俗粋好伝』：鼻山人
『江戸花誌』：鼻山人
『梓物語』：玉楼花紫
『言葉花』：鼻山人
『青楼色唐紙』：寛江舎蔦丸
『恐可志』：鼻山人
『画庭訓塵劫記』：華街桜山人
『仮名文章娘節用』：曲山人
『教外俗文娘消息』：曲山人
『阿玉が池』：鼻山人
『春情美佐尾の巻』：八路駒彦
『春色連理の梅』：二代目梅暮里谷峨
『春色江戸紫』：山々亭有人（条野採菊）
『通子遷』：五柳亭徳升
『春宵風見種』：梅亭金鵞
『夢見草』：福東子玉雄
『孝婦貞鑑実之巻』：鼻山人

これらの作品は、当時の社会風俗や恋愛観を反映しており、現代の私たちにとっても興味深い読み物となっています。

参考文献

武藤元昭『人情本の世界 江戸の「あだ」が紡ぐ恋愛物語』 笠間書院、2014年
山口剛「人情本について」『山口剛著作集』第4巻所収、中央公論社、1972年
鈴木敏夫『江戸の本屋 下』 中公新書、1980年
人間文化研究機構国文学研究資料館編『人情本事典』 笠間書院、2010年

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