平瀬本源氏物語

平瀬本源氏物語：多様な系統が交錯する貴重な写本

平瀬本源氏物語は、源氏物語の写本の一つとして知られています。かつて大阪の豪商、平瀬露香氏が所蔵していたことからこの名がつけられ、「平瀬家本」と呼ばれることもあります。重要文化財（旧国宝）に指定されており、その価値は非常に高いと評価されています。

写本の構成と特徴

全54帖からなる平瀬本ですが、その成立過程は非常に複雑です。40帖が鎌倉時代の書写と推定され、複数の筆者による合作であることが分かっています。その中には、青表紙本系統や、他の系統からの写しの部分が混在しています。特に注目すべきは、『竹河』巻に狭衣物語第二巻の本文が混入している点です。そのため、源氏物語の本文は53帖分しか存在しないとされることもあります。

さらに、古筆切として切り取られたと推測される箇所が複数存在し、その痕跡がきれいに整えられている点も興味深い特徴です。これらの欠損部分には、後世の研究者である山岸徳平による付箋が挟み込まれている場合もあります。

平瀬家と平瀬露香：文化と商いの交錯

平瀬家は、赤松則村の子孫を自称する大阪の豪商でした。両替商「千種屋」を営み、最盛期には住友や鴻池に匹敵する勢力を誇ったと伝えられています。しかし、明治時代に入ると経営は衰退し、家財の売却を繰り返すほどの窮乏状態に陥ります。

7代当主の平瀬露香（本名：亀之輔、1839-1908）は、複雑な出自を持ちました。本家筋の嫡男ではなかったため、若い頃は放蕩三昧の生活を送っていたとも言われています。一方で、第三十二国立銀行の設立や日本火災保険社長などを務めた実業家でもあり、俳諧、和歌、書画など、多様な文化活動にも造詣が深かったことから「最後の粋人」と呼ばれた一面も持ち合わせていました。

伝来と発見：研究史における位置づけ

平瀬本が平瀬家に入ったのは露香の代なのか、それ以前なのかは分かっていません。江戸時代後期の考証学者、狩谷棭斎の記録から、平瀬本は、狩谷が調査した源氏物語写本と同じものかもしれないという説もあります。

平瀬家は本写本を大切に保管し、指でめくることを禁じていました。専用の竹べらで扱われていたという逸話も残っています。

1919年、山脇毅によって河内本系統の写本として発見され、その存在が広く知られるようになりました。その後、池田亀鑑らによる詳細な調査・研究が行われ、『校異源氏物語』や『源氏物語大成』の対校本として採用されることになります。これらの校本においては、写本記号「平」として参照されています。

1941年には、旧国宝（現在の重要文化財）に指定されました。戦後には、一時「京都平瀬家本」と呼ばれた時期もありましたが、1999年に文化庁が購入したことで、現在では文化庁によって保管されています。

本文と奥書：河内本の成立過程

平瀬本のいくつかの巻の末尾には、河内本の成立過程を示唆する奥書が残されています。これらの奥書は、源親行が河内本を完成させた後も、校勘作業が続けられたことを示唆しており、平瀬本は、河内本系統の中でも、後世の校訂による改変が加えられた写本であると考えられています。

匂宮巻のように、本文は河内本系統である一方、巻末に青表紙本系統の特徴である藤原定家の注釈が付け加えられているなど、未解明の点も多い写本です。

狭衣物語の本文

『竹河』巻に混入している狭衣物語第二巻の本文は、「第二系統本」と呼ばれる系統に属し、簡潔な記述が特徴です。「九条家旧蔵本＝大島本」や「伝民部卿本」などと共に、狭衣物語の研究においても重要な資料となっています。

影印・翻刻

1921年に京都大学文学部から桐壺と真木柱の2帖のコロタイプ版が刊行されたのみで、それ以降は、全帖の影印・翻刻は進んでいませんでした。2010年には勉誠出版から全帖の影印・翻刻本の刊行が予定されていましたが、実現には至っていません。

まとめ

平瀬本源氏物語は、鎌倉時代の写本を基盤としながらも、青表紙本や別本系統からの影響を受け、さらに後世の校訂が加えられた、複雑な成立過程を持つ貴重な写本です。『竹河』巻への狭衣物語の混入など、謎も多く残されていますが、源氏物語研究において重要な資料であることは間違いありません。今後の研究がさらにその価値を明らかにすると期待されます。

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