海瑞罷官
『海瑞罷官』（かいずいひかん）は、1961年に中国の歴史学者であり、当時の北京市副市長でもあった呉晗（ごがん）によって発表された京劇の戯曲である。タイトルにある「罷」は職を辞めさせられることを意味するため、「海瑞の罷免」といったほどの題名となる。
この戯曲は、明朝時代の清廉な官吏として知られる海瑞が、地方官僚の不正を糾弾し、民衆から奪われた土地を返還するなど、正義を貫いたために、彼らの陰謀によって官職を追われるものの、罷免される直前に悪徳官僚を処刑するという物語を描いている。呉晗がこの題材を選んだ背景には、毛沢東が1959年に湘劇（湖南省の地方劇）の海瑞劇を見て、その「直言敢諫」、つまり率直に進言し諫める精神を宣伝するよう指示したことがあった。呉晗自身も明代史の研究者として、海瑞に関する歴史エッセイを執筆していた。
執筆の直接的な契機は、呉晗が人民日報に発表した「論海瑞」（海瑞について）という文章を読んだ北京京劇団の団長、馬連良（ばれんりょう）からの依頼だった。呉晗は当初、京劇の素人であることからためらったが、依頼を引き受け、数度の書き直しを経て1960年11月に戯曲を完成させた。題名は当初『海瑞』だったが、『海瑞罷官』に変更された後、1961年1月号の『北京文芸』に掲載され、同年2月11日より北京京劇団によって上演された。なお、呉晗が嘉靖帝を諫めて罷免された海瑞を描いた上海京劇院の『海瑞上疏』とは異なり、地方官僚の陰謀で罷免された隆慶帝時代の出来事を題材とした。
上演された舞台は、著名な歴史学者が戯曲を手がけたという物珍しさと、主演の馬連良ら俳優陣の技量によってある程度の成功を収めたが、京劇の専門家からの評価はさほど高くなく、長期にわたる上演には至らなかった。
しかし、この戯曲は後に予期せぬ政治的な波紋を呼ぶことになる。1965年11月10日、上海の『文匯報』に姚文元（ようぶんげん）による論文「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」が発表されたのだ。この論文は、戯曲中で海瑞が行う「平冤獄」（冤罪の取り消し）や「退田」（土地の返還）といった描写を問題視した。姚文元はこれらを、反革命分子の冤罪取消要求や、当時の農村における集団化された土地を農民に再分配し人民公社を解体しようとする主張と重ね合わせ、『海瑞罷官』はプロレタリア独裁や社会主義に反対する「毒草」であると激しく攻撃した。
当初、突然の戯曲批判の真意を測りかねる向きもあったが、姚文元の狙いは、毛沢東の意向を受けて呉晗の上司であった彭真（ほうしん）北京市市長を失脚させることにあったとされる。また、「退田」を大躍進政策後の経済調整期に導入された農民への生産請け負いを認める「三自一包（さんじいっぽう）」政策、「平冤獄」を右派と認定された人々への名誉回復と結びつけることで、これらの政策を主導した国家主席の劉少奇（りゅうしょうき）に対する批判に繋げる伏線とする意図も指摘されている。
この論文が発表された頃、毛沢東は1965年12月21日の内部談話で、「姚文元の文章も良いが、急所を突いていない。急所は『罷官』だ。嘉靖皇帝は海瑞を罷免したが、1959年に我々は彭徳懐（ほうとくかい）を罷免した。彭徳懐も『海瑞』だ」と述べ、戯曲の「罷官」と、廬山会議で大躍進政策への批判を行ったために失脚させられた彭徳懐国防部長の罷免を強引に結びつけた。この毛沢東の発言により、『海瑞罷官』が彭徳懐解任を批判・影射した作品であるという見方が急速に広まった。江青（こうせい）や康生（こうせい）といった後の文化大革命の中心人物たちも、以前からこの戯曲を批判すべきと主張しており、康生は毛沢東に作品と彭徳懐を結びつけるよう示唆したとも言われている。姚文元の論文自体、江青と当時の上海市党書記、張春橋（ちょうしゅんきょう）が秘密裏に執筆させたものであった。
姚文元の論文は12月になると北京の主要な新聞雑誌にも転載され、大きな論争を巻き起こした。事態の収拾を図るため、当時の党中央で文化分野を担当していた「文化革命五人小組（ごにんしょうそく）」の組長であった彭真は、1966年2月に論争をあくまで学術的な枠内に留める方針を示した「二月要綱（にがつようこう）」を作成し、党中央の承認を得た。しかし、毛沢東は同年4月10日に一転してこの「二月要綱」を批判。続く5月に開催された党中央政治局拡大会議で、「二月要綱」の撤回と「文化革命五人小組」の廃止、新たな指導機関「中央文化革命小組」の設置が決定された。「五・一六通知」と呼ばれるこの決定の中で、彭真は陸定一（りくていいつ）、羅瑞卿（らぜいけい）、楊尚昆（ようしょうこん）と共に「反党集団」であると林彪（りんぴょう）に指弾され、失脚に至った。
このように、『海瑞罷官』を巡る論争とそれに続く政治闘争は、中国共産党内部の権力闘争と深く結びつき、「五・一六通知」が各領域の「ブルジョア階級の代表者」への批判と権力奪取を呼びかけるものとなったことで、文化大革命の発動を告げる序幕となった。作者の呉晗自身も、文化大革命中の1968年に投獄され、1969年11月10日に獄中で死去した。
なお、毛沢東が初めて海瑞を題材とする劇を見たのは、『海瑞罷官』に先立つ1958年12月、湖南省長沙で上演された湘劇「生死牌」だった。この劇を見せた湖南省党委員会第一書記の周小舟（しゅうしょうしゅう）もまた、大躍進政策に批判的であり、1959年の廬山会議で彭徳懐と共に「反党集団」として批判され、左遷される人物であった。周小舟は自らの立場を海瑞に重ね合わせていた可能性が指摘されている。
この戯曲は、明朝時代の清廉な官吏として知られる海瑞が、地方官僚の不正を糾弾し、民衆から奪われた土地を返還するなど、正義を貫いたために、彼らの陰謀によって官職を追われるものの、罷免される直前に悪徳官僚を処刑するという物語を描いている。呉晗がこの題材を選んだ背景には、毛沢東が1959年に湘劇（湖南省の地方劇）の海瑞劇を見て、その「直言敢諫」、つまり率直に進言し諫める精神を宣伝するよう指示したことがあった。呉晗自身も明代史の研究者として、海瑞に関する歴史エッセイを執筆していた。
執筆の直接的な契機は、呉晗が人民日報に発表した「論海瑞」（海瑞について）という文章を読んだ北京京劇団の団長、馬連良（ばれんりょう）からの依頼だった。呉晗は当初、京劇の素人であることからためらったが、依頼を引き受け、数度の書き直しを経て1960年11月に戯曲を完成させた。題名は当初『海瑞』だったが、『海瑞罷官』に変更された後、1961年1月号の『北京文芸』に掲載され、同年2月11日より北京京劇団によって上演された。なお、呉晗が嘉靖帝を諫めて罷免された海瑞を描いた上海京劇院の『海瑞上疏』とは異なり、地方官僚の陰謀で罷免された隆慶帝時代の出来事を題材とした。
上演された舞台は、著名な歴史学者が戯曲を手がけたという物珍しさと、主演の馬連良ら俳優陣の技量によってある程度の成功を収めたが、京劇の専門家からの評価はさほど高くなく、長期にわたる上演には至らなかった。
しかし、この戯曲は後に予期せぬ政治的な波紋を呼ぶことになる。1965年11月10日、上海の『文匯報』に姚文元（ようぶんげん）による論文「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」が発表されたのだ。この論文は、戯曲中で海瑞が行う「平冤獄」（冤罪の取り消し）や「退田」（土地の返還）といった描写を問題視した。姚文元はこれらを、反革命分子の冤罪取消要求や、当時の農村における集団化された土地を農民に再分配し人民公社を解体しようとする主張と重ね合わせ、『海瑞罷官』はプロレタリア独裁や社会主義に反対する「毒草」であると激しく攻撃した。
当初、突然の戯曲批判の真意を測りかねる向きもあったが、姚文元の狙いは、毛沢東の意向を受けて呉晗の上司であった彭真（ほうしん）北京市市長を失脚させることにあったとされる。また、「退田」を大躍進政策後の経済調整期に導入された農民への生産請け負いを認める「三自一包（さんじいっぽう）」政策、「平冤獄」を右派と認定された人々への名誉回復と結びつけることで、これらの政策を主導した国家主席の劉少奇（りゅうしょうき）に対する批判に繋げる伏線とする意図も指摘されている。
この論文が発表された頃、毛沢東は1965年12月21日の内部談話で、「姚文元の文章も良いが、急所を突いていない。急所は『罷官』だ。嘉靖皇帝は海瑞を罷免したが、1959年に我々は彭徳懐（ほうとくかい）を罷免した。彭徳懐も『海瑞』だ」と述べ、戯曲の「罷官」と、廬山会議で大躍進政策への批判を行ったために失脚させられた彭徳懐国防部長の罷免を強引に結びつけた。この毛沢東の発言により、『海瑞罷官』が彭徳懐解任を批判・影射した作品であるという見方が急速に広まった。江青（こうせい）や康生（こうせい）といった後の文化大革命の中心人物たちも、以前からこの戯曲を批判すべきと主張しており、康生は毛沢東に作品と彭徳懐を結びつけるよう示唆したとも言われている。姚文元の論文自体、江青と当時の上海市党書記、張春橋（ちょうしゅんきょう）が秘密裏に執筆させたものであった。
姚文元の論文は12月になると北京の主要な新聞雑誌にも転載され、大きな論争を巻き起こした。事態の収拾を図るため、当時の党中央で文化分野を担当していた「文化革命五人小組（ごにんしょうそく）」の組長であった彭真は、1966年2月に論争をあくまで学術的な枠内に留める方針を示した「二月要綱（にがつようこう）」を作成し、党中央の承認を得た。しかし、毛沢東は同年4月10日に一転してこの「二月要綱」を批判。続く5月に開催された党中央政治局拡大会議で、「二月要綱」の撤回と「文化革命五人小組」の廃止、新たな指導機関「中央文化革命小組」の設置が決定された。「五・一六通知」と呼ばれるこの決定の中で、彭真は陸定一（りくていいつ）、羅瑞卿（らぜいけい）、楊尚昆（ようしょうこん）と共に「反党集団」であると林彪（りんぴょう）に指弾され、失脚に至った。
このように、『海瑞罷官』を巡る論争とそれに続く政治闘争は、中国共産党内部の権力闘争と深く結びつき、「五・一六通知」が各領域の「ブルジョア階級の代表者」への批判と権力奪取を呼びかけるものとなったことで、文化大革命の発動を告げる序幕となった。作者の呉晗自身も、文化大革命中の1968年に投獄され、1969年11月10日に獄中で死去した。
なお、毛沢東が初めて海瑞を題材とする劇を見たのは、『海瑞罷官』に先立つ1958年12月、湖南省長沙で上演された湘劇「生死牌」だった。この劇を見せた湖南省党委員会第一書記の周小舟（しゅうしょうしゅう）もまた、大躍進政策に批判的であり、1959年の廬山会議で彭徳懐と共に「反党集団」として批判され、左遷される人物であった。周小舟は自らの立場を海瑞に重ね合わせていた可能性が指摘されている。
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