深淵への降下

リン・カーター作『深淵への降下』（原題：英: The Descent into the Abyss）は、1980年にホラー雑誌『ウィアード・テールズ』ゼブラブックス版#2に発表された短編ホラー小説です。ハワード・フィリップス・ラヴクラフトやクラーク・アシュトン・スミスらによる神話大系を受け継ぐ、クトゥルフ神話の一つとして位置づけられています。特に、スミスによる架空の魔導書「エイボンの書」の内容の一部という形で描かれ、後に実書籍版『エイボンの書』にも収録されました。

概要と執筆背景

本作は、クラーク・アシュトン・スミスの神話作品『七つの呪い』に着想を得て執筆されました。スミスの作品に登場する、人類以前の時代の強力な魔術師ハオン＝ドルを主人公に据え、その深淵への探求を描いています。初出時には、スミス作とクレジットされ、「カーターにより完成された」という小さな脚注が添えられました。これは、スミスが残したアイデアメモを基にカーターが大幅に加筆し、内容のほぼ全てを執筆したためです。この執筆姿勢に対しては、カーターが自身の構築するクトゥルフ神話体系に権威を与えるため、大家であるスミスの名前を利用したのではないかという指摘も存在します。

カーターは、スミスの『七つの呪い』におけるウボ＝サスラの描写が自身の解釈と異なったため、本作を正統派ウボ＝サスラの物語として再構築しました。また、スミスが用いた「アルケタイプ」（原像）を「プロトタイプ」（原始型）と読み替え、イカーの深淵に棲む奉仕種族の長老たちをレッサー・オールド・ワン（下級の旧支配者）として設定しました。物語世界では、強大な魔術師であるハオン＝ドルでさえ、これらの下級の旧支配者の前では取るに足らない存在であり、上位の旧支配者には全く歯が立たないことが示唆されています。

あらすじ

物語は、宇宙に時間が始まるよりも遥か太古、原形質の神ウボ＝サスラが旧き神々から宇宙の秘密が記された石板を盗み出したことに始まります。この冒涜的な行為に対する罰として、旧き神々はウボ＝サスラの知性を奪い、終わりのない汚らわしい生命の多産を運命づけました。

時代は下り、人類誕生以前の時代。強力な魔術師ハオン＝ドルは、このウボ＝サスラの持つ石板の知識を求め、ヴーアミタドレス山の地下深淵に広がるイカーの領域へと旅立ちます。地下トンネルで強力な魔物ズシャコンに遭遇しますが、携行する護符「旧き鍵」の力を借りてこれを回避します。さらに奥へ進んだ彼は、クームヤーガ、ナグといった異形たちが徘徊する「原始型たちの洞窟」、すなわち下級の旧支配者たちの領域に足を踏み入れます。大魔術師である彼も、彼らの前では無力であり、「旧き鍵」だけを頼りに進むしかありませんでした。

ウボ＝サスラの巣穴へ続く岩部屋の入口で、ハオン＝ドルは巨大な歳経たショゴスに遭遇します。戦闘を覚悟するハオン＝ドルでしたが、ショゴスは彼を一瞥しただけで姿を消しました。この予期せぬ行動に、ハオン＝ドルはまるで嘲笑されたかのような感覚を覚えつつも、ウボ＝サスラの棲家へと無事侵入することに成功します。

原形質の塊であるウボ＝サスラの傍らには、探求の目的である石板が確かに転がっていました。彼が石板に目を向けたその瞬間、石板に刻まれた文字が網膜に焼き付き、大宇宙の真実の知識が彼の脳内へと雪崩れ込みます。世界の裏側、隠された深淵を理解してしまったハオン＝ドルは、その圧倒的な真実に耐えることができず発狂し、一目散に地上へと逃げ帰りました。

脳裏に焼き付いた知識から逃れることのできないハオン＝ドルは、ヴーアミタドレス山の地下に館を建て、隠遁生活を送るようになります。この館は異世界と重なり合っているとも噂されました。やがて人類の時代が到来すると、ハオン＝ドルの伝説は語り継がれ、「エイボンの書」には、彼の館の隣人として、深淵に棲む者たちよりはいくらかまともな隠者エズダゴル、ラフォンティス、アトラック＝ナチャ、ツァトゥグァといった存在が今も地下深くに棲んでいるかもしれない、と記されることになります。

主な登場人物・用語

ハオン＝ドル: 人類以前の時代の魔術師。ウボ＝サスラの石板の知識を求める主人公。
ウボ＝サスラ: 地球上の全生命の源とされる原形質の神。旧神の石板を抱え生命を産み続ける。
イカーの深淵: ヴーアミタドレス山地下に広がる、多次元と繋がる空間。「原始型たちの洞窟」として下級の旧支配者たちが棲まう場所でもある。
原始型たち（下級のオールド・ワン）: イカーの深淵に棲む奉仕種族の長老たち。クームヤーガ、ナグ、ススハー、イェブ、チィトカア、ツンス、ミリ・ニグリの首領、ダーク・ワンの首領、イェグ＝ハ、エ＝ポオなどが含まれる。
ズシャコン: ムーの民などに崇拝される強力な魔物。
ショゴス（クトゥッグオル）: ウボ＝サスラの巣穴を守護する歳経たショゴス。
旧き記録: ウボ＝サスラの抱える、宇宙の真実の知識が刻まれた石板。
旧き鍵: ハオン＝ドルが携える強力な護符。下級の旧支配者回避に役立つ。

関連作品

『七つの呪い』（クラーク・アシュトン・スミス）: 本作の着想元。
『陳列室の恐怖』『暗黒の知識のパピルス』（リン・カーター）: カーターのクトゥルフ神話設定を補強する作品。

収録

* 『エイボンの書 クトゥルフ神話カルトブック』（新紀元社）

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