シャー・ナーメ

シャー・ナーメ：ペルシアの民族叙事詩

『シャー・ナーメ』（王書）は、ペルシア語で書かれたイラン最大の民族叙事詩であり、詩人フェルドウスィーが30年以上の歳月をかけて完成させた大作です。約6万対句にも及ぶこの叙事詩は、古代ペルシアの神話、伝説、歴史を網羅し、イラン人の文化やアイデンティティを深く形成する重要な作品となっています。

概要

『シャー・ナーメ』は、サーサーン朝時代に編纂されたペルシア通史『フワダーイ・ナーマグ』を基に、フェルドウスィーによって980年頃から作詩が開始されました。当初はサーマーン朝の君主に献呈される予定でしたが、同朝が滅亡したため、ガズナ朝のマフムードに献上されました。

この叙事詩は、伝説的な初代王カユーマルスからサーサーン朝滅亡までの約50人の王の治世を描いています。特に、聖王ジャムシードや暴君ザッハーク、霊鳥シームルグ、英雄ロスタムとその息子ソホラーブの悲劇はよく知られています。イランでは国民的な叙事詩として広く親しまれ、多くの写本が作られました。ただし、イスラム化後に作詩されたため、ゾロアスター教などの神話は一神教の教義に合わせて改変されています。

構成

『シャー・ナーメ』は、神話時代、英雄時代、歴史時代の三部構成となっています。

第一部: 初期文明の神話時代を描き、神話的な王や出来事が語られます。
第二部: 英雄たちの活躍する時代で、特にロスタムをはじめとする英雄たちの物語が中心です。
* 第三部: サーサーン朝歴代の王の統治時代を描き、歴史的な出来事が語られます。特に歴史時代の記述は全体の5分の1を占めています。

物語の中で、特に人々の心を打つのは、運命の無常さや人間の悲哀を描いた場面です。詩人は、主要人物の死を通じて、人の世の儚さや運命の残酷さを嘆きます。フェリードゥーン王が息子の死を嘆く場面や、ロスタムが我が子を殺して嘆き悲しむ場面など、「嘆き」の場面が繰り返し登場します。この「嘆き」のエネルギーこそが、ペルシア詩の特徴であり、イラン人の特質であると指摘されています。

成立の背景

古代ペルシアは、アケメネス朝、パルティア王国、サーサーン朝といった王朝が興亡しました。サーサーン朝はゾロアスター教を国教としましたが、7世紀にイスラーム勢力の侵攻によって滅亡しました。その後、イランはイスラーム化政策が進められましたが、中世にはトルコやモンゴルの異民族王朝も興亡しました。『シャー・ナーメ』は、こうした歴史的背景の中で、ペルシア人の民族意識や文化的なアイデンティティを維持するために重要な役割を果たしました。

サーサーン朝滅亡から300年以上経った後、詩人フェルドウスィーによって『シャー・ナーメ』は完成しました。彼以前にもいくつかの試みがありましたが、フェルドウスィーは既存の資料や伝承をまとめ、壮大な叙事詩を創り上げました。

ゾロアスター教の世界観

『シャー・ナーメ』には、ゾロアスター教の「善悪二元論」の世界観が反映されています。善神アフラ・マズダーと悪神アフリーマンの戦いが描かれ、宇宙の創造から終末までの壮大な物語が展開されます。善神は光と創造を司り、悪神は闇と破壊を司るとされます。善と悪の戦いは3000年ずつの4期に分かれており、最後に善が勝利するとされます。

ゾロアスター教の宇宙観では、まず天空、水、大地、植物、動物、そして人間が創造されます。しかし、悪神が目覚めると、この平和が破られ、善と悪の戦いが始まります。この戦いは、人類の歴史を通じて繰り広げられ、最終的に救世主が現れて完き善が到来するとされています。この二元論的な世界観は、イスラームの教義とは異なりますが、ペルシアの人々の心に深く根付いています。

後世への影響

『シャー・ナーメ』は、後世の文化や政治にも大きな影響を与えました。11世紀のイラン人宰相ニザームルムルクは、著書『統治の書』で『シャー・ナーメ』の英雄を模範的な君主として紹介し、その一方で、セルジューク朝の由来を『シャー・ナーメ』に登場するアフラースィヤーブにまで遡って説明しています。また、12世紀の歴史家ラーヴァンディーも、著書で『シャー・ナーメ』を引用しています。

さらに、サファヴィー朝時代には、豪華な挿絵が描かれた『シャー・ナーメ』の写本が制作されました。特に、16世紀に制作された「シャー・タフマースプの偉大なるシャー・ナーメ」は、写本芸術の最高峰とされています。20世紀には、イランのナショナリズムの高まりとともに、『シャー・ナーメ』は国民的な叙事詩として、作者フェルドウスィーは国民的な詩人として称えられました。1934年には「フェルドウスィー生誕1000年祭」が開催され、『シャー・ナーメ』の一節である「知は力なり」はイランの教育標語として用いられました。

『シャー・ナーメ』は、単なる叙事詩としてだけでなく、イランの歴史、文化、アイデンティティを理解する上で欠かせない重要な作品です。その影響は、文学、芸術、政治など多岐にわたり、現代のイラン社会にも深く根付いています。

もう一度検索