ジャネット・ベイカー

デイム・ジャネット・アボット・ベイカー（Dame Janet Abbott Baker、1933年8月21日 - ）は、イギリス（イングランド）出身の著名なメゾソプラノ歌手です。オペラ、コンサート、そして歌曲という幅広い分野で活躍し、英国において最もよく知られた声楽家の一人として名を馳せました。

彼女は特に、バロック時代や初期イタリアのオペラ、そしてイギリスを代表する作曲家ベンジャミン・ブリテンの作品上演に深く関わりました。1950年代から1980年代にかけて、彼女はその卓越した歌唱力と並外れた劇的な表現力によって「歌う女優」と称賛され、広く認められました。その代表的な演技としては、ベルリオーズの壮大なオペラ『トロイアの人々』における悲劇的なヒロイン、ディードー役がしばしば挙げられます。オペラのみならず、コンサートや歌曲リサイタルでも大きな足跡を残し、グスタフ・マーラーやエドワード・エルガーの作品の解釈は特に高く評価されています。評論家のデイビッド・ガットマンは、グラモフォン誌上で、彼女が歌うマーラーの『亡き子をしのぶ歌』を「親密で、まるで自身と語り合っているようだ」と評しています。

若年期からキャリアへ
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャーのハットフィールドで生まれたジャネット・ベイカーは、エンジニアであり聖歌隊員でもあった父を持ち、ドンカスター近郊で育ちました。幼い頃から音楽に親しみましたが、10歳の時に兄を亡くしたことが、後の人生に対する責任感を強く意識するきっかけになったと語っています。銀行勤務を経て、1953年にロンドンへ移り、マリエル・セント・クレア、ヘレン・イセップ、ロッテ・レーマンといった名教師たちに師事しました。この頃、バス事故による怪我に見舞われながらも、1956年にはキャスリーン・フェリア・メモリアル・コンペティションで2位入賞を果たし、全国的な注目を集めました。

舞台とオペラでの成功
同年、オックスフォード大学オペラクラブでのスメタナ『秘密』でのミス・ロザ役でオペラ舞台にデビュー。またグラインドボーン音楽祭にも初登場しました。ヘンデルオペラ協会では、『ロデリンダ』のエドゥイジェ役をはじめ、『アリオダンテ』や『オルランド』といったヘンデル作品で重要な役を歌い、後の名録音へと繋がります。オールドバラ音楽祭では、パーセル『ディドとエネアス』のディド役や、ブリテン編曲版『ベガーズ・オペラ』のポリー、ブリテン『ルクレティアの陵辱』のルクレティアといった役を演じました。グラインドボーンでは『カリスト』のダイアナ/ジュピター、モンテヴェルディ『ウリッセの帰還』のペネロペとしても登場。スコティッシュ・オペラやコヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウス、イングリッシュ・ナショナル・オペラといった主要な歌劇場で数多くの役を成功させました。モーツァルトのドラベッラやヴィッテリア、リヒャルト・シュトラウスのオクタヴィアン、マスネのシャルロットなど幅広いレパートリーを歌いましたが、特にグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』のオルフェオ役は彼女の代表的な役と見なされ、複数のプロダクションで演じ、その映像も残されています。

コンサートと歌曲の芸術
オペラでの活躍と並行して、ジャネット・ベイカーはオラトリオやソロリサイタルでも聴衆に強い印象を与えました。エルガーのオラトリオ『ゲロンティアスの夢』における天使役の録音は特に名高く、ジョン・バルビローリ指揮、そしてサイモン・ラトル指揮でそれぞれ歴史的な録音を残しています。他にもエルガーの『海の絵』やマーラーの『リュッケルト歌曲集』、ヴォーン・ウィリアムズの『ホーディー』など、多くの重要な録音に参加しました。1963年にはBBCプロムスに初出演し、レオポルド・ストコフスキー指揮によるマーラー交響曲第2番『復活』でコントラルト・パートを歌っています。また、ブリテンが彼女のために作曲した独唱カンタータ『フェードラ』や、ドミニク・アルジェントのピューリッツァー賞受賞作である連作歌曲『バージニア・ウールフの日記から』の初演歌手としても歴史に名を刻みました。ブラームス『アルト・ラプソディ』やワーグナー『ヴェーゼンドンク歌曲集』、そしてフランス、ドイツ、英国の広範な歌曲レパートリーにおける洞察力に富んだ演奏も高く評価されています。

引退とその後
1982年7月17日、グラインドボーン音楽祭でのグルック『オルフェオとエウリディーチェ』のオルフェオ役をもってオペラ舞台から引退しました。その後も歌曲リサイタルは続けましたが、1989年に演奏活動から身を引きました。1982年には回想録『Full Circle』を出版。1991年から2004年までヨーク大学の学長を務めるなど、音楽界以外でも貢献しました。

その功績に対し、ジャネット・ベイカーは多くの栄誉と賞を受けています。大英帝国勲章コマンダー（CBE）、デイムコマンダー（DBE）を経て、イギリスの最高位の勲章の一つであるコンパニオン・オブ・オナー勲章（CH）を授与されました。また、グラミー賞を複数回受賞しているほか、デンマークのレオニー・ソニング音楽賞や、王立フィルハーモニック協会のゴールドメダルなど、国際的、国内的に権威ある賞や名誉を多数獲得しています。2012年にはグラモフォン誌の「殿堂」入りも果たしました。

私生活では、1957年にジェームズ・キース・シェリーと結婚しました。夫は彼女のマネージャーとしてキャリアを支えましたが、二人は彼女の活動のため、子供を持たないという決断をしました。歌手引退後も、ブリテン作品のナレーターなど、いくつかの朗読の録音を行いました。近年は公の場に出ることは稀ですが、フェリシティ・ロット、イモージェン・クーパー、ジェーン・グラヴァー、パトリシア・ラウトリッジといった親しい友人たちとの交流を大切にしています。夫が脳卒中を起こしてからは、自宅で介護にあたっています。

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