交響曲第10番 (マーラー)

グスタフ・マーラー 交響曲第10番嬰ヘ長調

グスタフ・マーラーが作曲した交響曲第10番は、彼の最後の交響曲であり、未完の作品として知られています。1910年に作曲が開始されましたが、マーラーが1911年に亡くなったため、完成には至りませんでした。しかし、マーラーの死後、残されたスケッチをもとに、多くの音楽学者や作曲家が補筆を行い、全曲版が完成しました。この交響曲は、マーラーの個人的な苦悩と、音楽的な革新が交錯する、非常に興味深い作品として知られています。

概要

マーラーは1910年に交響曲第10番の作曲を開始しましたが、翌1911年に死去したため、未完のまま終わりました。楽譜は、第1楽章がほぼ浄書に近い状態であったものの、他の楽章はスケッチの段階でした。国際マーラー協会は、第1楽章のみを「全集版」として出版し、単独で演奏されることが多かったのですが、第二次世界大戦後、デリック・クックなどによって、補筆された全曲版が作られるようになりました。

マーラーの遺稿は5楽章構成で、第3楽章を軸とした対称的な構成を構想していたとされています。第1楽章は緩徐楽章ですが、ソナタ形式の痕跡はほとんど見られません。また、第3楽章「プルガトリオ」では、自作の歌曲集『少年の魔法の角笛』から「この世の生活」が引用されています。調性においては、無調に近づく部分が見られ、極度の不協和音が使用されているのが特徴です。第1楽章では、1オクターブ12音階中の9音が同時に鳴らされる箇所もあり、アルノルト・シェーンベルクはこれを和声の革新とみなしました。

演奏時間は、第1楽章のみの場合、およそ20分台後半から30分ほどですが、補筆全曲版の場合は、およそ75分から85分ほどになります。

遺稿の完成度

マーラーは、全5楽章の最後まで略式総譜を書いており、第1楽章と第2楽章については、オーケストレーションを施した総譜の草稿を終えていました。しかし、第2楽章は構成と拍子が複雑で、遺稿に一部欠落があったため、そのままでは演奏不能でした。第3楽章は、最初の30小節についてオーケストレーションがなされていましたが、形式が単純であったため、補筆は比較的容易でした。第4楽章以降は、楽器指定が書き込まれているものの、声部には濃淡があり、完成度は低い状態でした。

楽曲構成や楽章順については、過去の自作で迷った経緯もあり、最終的な判断とは言い切れませんが、略式総譜の順および作品の完成度から、構想段階のものとしてはほぼ確定可能とされています。

マーラーの書き込み

この曲のスケッチには、第3楽章以降、妻アルマへの言葉が数多く記されています。第3楽章には、「死! 変容!」、「憐れみ給え! おお神よ! なぜあなたは私を見捨てられたのですか?」、「御心が行われますように!」などの言葉が書かれています。第4楽章には、「悪魔が私と踊る、狂気が私にとりつく、呪われたる者よ! 私を滅ぼせ、生きていることを忘れさせてくれ! 生を終わらせてくれ、私が……」といった言葉や、「完全に布で覆われた太鼓、これが何を意味するか、知っているのは君だけだ! ああ! ああ! ああ! さようなら、私の竪琴! さようなら、さようなら、さようなら、ああ、ああ、ああ」といった言葉が書かれています。第5楽章のコーダには、「君のために生き! 君のために死ぬ! アルムシ!」という言葉が書かれています。これらの書き込みは、マーラーとアルマの関係が、ヴァルター・グロピウスの登場によって緊張していた時期のものであり、マーラーの心の動揺が反映されていると考えられています。

作曲の経緯

1910年、マーラーの妻アルマは、療養のため滞在していた場所で、建築家ヴァルター・グロピウスと出会いました。マーラーは、同年7月3日に、第10番の構想を始めました。その後、グロピウスがアルマに求愛の手紙を送り、マーラーは二人の関係を疑いました。8月5日には、グロピウスを自宅に招き入れ、アルマに決断を委ねましたが、アルマはマーラーの元にとどまりました。しかし、グロピウスとの関係はその後も続き、マーラーの死後、アルマはグロピウスと結婚しました。

8月22日、マーラーは体調を崩し、昏倒します。8月25日には、ジークムント・フロイトの診断を受けますが、この診療以降、第10交響曲の作曲を進めた記録は残されていません。9月12日には、交響曲第8番の初演を成功させましたが、1911年 5月18日に亡くなりました。最後の言葉は「モーツァルト!」だったと伝えられています。

主な補筆と演奏の経緯

マーラーは、完成できなかった第10番のスコアを焼却するように、妻アルマに言い残したとされていますが、アルマは楽譜を保管していました。1924年、アルマは娘婿のエルンスト・クルシェネクに補筆完成を依頼し、クルシェネクは第1楽章と第3楽章を完成させました。1942年には、ジャック・ディーサーがドミートリイ・ショスタコーヴィチに補筆を依頼しましたが、ショスタコーヴィチは断りました。第二次世界大戦後、多くの音楽家が補筆に取り組み、クリントン・カーペンター、デリック・クックなどが全曲版を完成させました。

特に、デリック・クック版は、マーラーの意図を尊重しつつ、欠落部分を補完しており、広く受け入れられています。国際マーラー協会は、補筆されていない第1楽章のみを「全集版」として出版していますが、補筆版も数多く演奏されています。

楽曲構成

この交響曲は、短い第3楽章を中心に、対称的な5楽章構成となっています。以下に、各楽章の構成と特徴を解説します。

第1楽章アダージョ

自由なソナタ形式で、虚無的で謎めいたヴィオラの序奏で始まります。弦を主体とした第1主題は、柔らかく歌われるように演奏されます。その後、皮肉でおどけた調子の第2主題が現れます。展開部では、序奏主題と第2主題が結合し、皮肉な調子が支配的となります。再現部では、第1主題が神秘的な浮遊感をたたえ、第2主題が変形されて再現されます。そして、コラール的な絶叫“カタストロフィ”が吹き上がり、不協和音が重なり合う中、トランペットのA音が貫くように奏でられます。最後に、アダージョ主題が繰り返され、穏やかに楽章を終えます。

第2楽章スケルツォ

反抗的なスケルツォで、拍子が頻繁に変わります。ホルンや木管の軽快な動機に続いて、荒々しい弦の主題が登場します。曲調は徐々に明るさを帯びていき、レントラー風の中間部が現れます。その後、二つの部分が交互に現れ、変奏・再現を繰り返します。最後は、上昇音型と下降音型が重なり合い、嬰ヘ長調で楽章を終えます。

第3楽章プルガトリオ（煉獄）

簡潔な三部形式で、もの悲しい主要主題と、木管の愛らしい対句からなります。『少年の魔法の角笛』から「この世の生活」が引用されており、3音動機がリヒャルト・シュトラウスの『サロメ』との関連が指摘されています。中間部では、付点リズムを伴う順次下降の動機が繰り返され、「死! 変容!」などの言葉が書き込まれています。

第4楽章 [スケルツォ]

力強く激情的なスケルツォで、2つの部分が交錯します。マーラーは、「悪魔が私と踊る、狂気が私にとりつく」などと書き込んでいます。主部は荒々しい舞曲で、随所に第3楽章の3音動機が現れます。中間部はワルツ風で明るく、交響曲第5番のスケルツォが引用されています。最後にバスドラムが弱々しく連打されるコーダに入り、一瞬の静寂の後、バスドラムが強烈に打たれ、そのまま次の楽章につながります。

第5楽章フィナーレ

緩-急-緩という、大きく三つの部分から構成されています。バスドラムの連打とチューバの不気味な響きで始まり、第3楽章の3音動機が現れます。フルートが印象的な旋律を奏で、次第に高揚します。その後、テンポが速くなり、三音動機と付点リズム・順次下降の動機が展開され、再び静かになります。フルートの主題が再現され、三音動機が柔らかく出ると、音楽は感動的に高まり、やがて静まっていきます。最後は嬰ヘ長調となり、付点リズム・順次下降の動機が示され、交響曲第9番の二度下降動機によって終わります。マーラーはこの結尾部分に、「君のために生き! 君のために死ぬ! アルムシ!」と書き込んでいます。

全集版（第1楽章のみ）

国際グスタフ・マーラー協会は、作曲者以外の手が加わっていないスコアを正統としており、補筆版に否定的な立場を取っています。そのため、協会が出版した「全集版」の第10番は、補筆なしで演奏可能な第1楽章のみとなっています。この版は、オーケストレーションが比較的薄く、また、自筆譜を尊重する立場から、煩雑な臨時記号がそのまま採用されています。そのため、演奏時に分かりにくい面があるため、補筆版では異名同音処理によって、この煩雑さを避けています。

補筆版

以下に主な補筆版を紹介します。

クルシェネク版

エルンスト・クルシェネクによる、第1楽章と第3楽章の補筆版です。フランツ・シャルク、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーなども補筆に協力したとされています。クックによる全曲版以降、演奏されることはほとんどありません。

カーペンター版

アマチュア音楽家クリントン・カーペンターによる補筆版で、より補筆者の意思が反映されています。第1楽章と第3楽章にも手が加えられており、編曲に近いと言えるかもしれません。最近は新版が出ていてジンマンにより録音されています。

スカルピーニ版

イタリアのピアニスト、ピエトロ・スカルピーニが、第2楽章から第5楽章を補筆してピアノ連弾版としたものです。この補筆版の録音としては、最も古いものです。

ウィーラー版

イギリスの音楽学者、ジョセフ・ウィーラーによるもので、オーケストレーションがもっとも地味だとされています。ウィーラーの死後、3人の音楽家によって改訂版が出版されました。

クック版

イギリスの音楽学者、デリック・クックによる補筆版で、マーラーの構想を音として聴ける形にすることを目的としています。第1稿では、第2楽章と第4楽章に一部欠落がありましたが、その後補填され、第3稿が発表されました。広く受け入れられている、補筆版の代表的な存在です。

マゼッティ版

レモ・マゼッティによる補筆版で、「ウィーラー版」の改訂にも携わっています。第2稿は第1稿に比べオーケストレーションが控えめとなっています。

サマーレ/マッツーカ版

ブルックナーの交響曲第9番第4楽章の補筆完成版を作成したニコラ・サマーレとジュゼッペ・マッツーカによる版です。

バルシャイ版

ルドルフ・バルシャイによる補筆完成版で、クック版を基にしながら、大規模な編成を取り、打楽器を重視した版です。

ガムゾウ版

イスラエルの若手指揮者、ヨエル・ガムゾウによる版で、ユダヤ風のしつこいオーケストレーションが特徴的です。

まとめ

交響曲第10番は、マーラーの死によって未完に終わったものの、後世の音楽家たちによって補筆され、現在では多くの演奏家によって演奏されています。この交響曲は、マーラーの個人的な苦悩と、音楽的な革新が交錯する、非常に興味深い作品であり、その音楽的な価値は高く評価されています。様々な補筆版が存在しますが、それぞれに特徴があり、聴き比べてみるのも面白いでしょう。

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