尻垂坂の戦い

尻垂坂の戦い（しりたれざかのたたかい）は、元亀3年（1572年）9月初旬、越中国尻垂坂（現在の富山県富山市西新庄周辺とされる）で、上杉謙信の軍勢が加賀および越中の一向一揆連合軍と激突した戦いです。この戦いで上杉軍は一揆勢を打ち破り、越中における謙信の勢力を不動のものとしました。しかし、一連の戦いにおける野戦の主たる舞台が具体的に「尻垂坂」であったことを裏付ける一次史料は少なく、文献によっては「富山城の戦い」と記されることもあります。

戦いの背景

北陸地方、特に加賀や越中では、石山本願寺門徒を中心とした一向一揆が強大な勢力を誇っていました。彼らは石山合戦などで織田信長と対峙した一揆と同様に、多くの鉄砲を所有し、強固な信仰心で結ばれていました。上杉謙信にとって、この一向一揆は武田信玄や北条氏康と並ぶ強敵と認識されていました。

越中における一向一揆と上杉（長尾）氏との対立は、謙信の祖父・長尾能景や父・長尾為景の代から続いていました。謙信が越後の国主となってからも、その関係は改善されませんでした。特に、謙信と北信濃で激しく争っていた武田信玄は、謙信の行動を牽制するため、加賀・越中の一向一揆を扇動し、謙信の背後を脅かそうとしました。

弘治2年（1556年）、武田信玄に通じた上杉家臣・大熊朝秀が一揆勢と共に越後へ攻め込みましたが、謙信はこれを退けました（駒帰の戦い）。永禄3年（1560年）には一揆と結んだ神保長職の富山城を攻略しましたが、謙信の関東出陣中に長職は勢力を盛り返しました。永禄5年（1562年）、謙信は再び長職を増山城に攻めて降伏させます。永禄11年（1568年）、謙信は能登守護・畠山義綱の復権を支援するため越中へ侵攻し、一揆勢と対峙しましたが、家臣・本庄繁長の反乱報で越後へ引き返すと、一揆勢は反撃に転じました。翌永禄12年（1569年）、謙信は一揆と結んだ椎名康胤の松倉城を百日以上攻めましたが、落とせませんでした。

しかし、元亀2年（1571年）2月から3月にかけて、謙信は2万8千の大軍を率いて越中へ出兵し、難攻不落とされた松倉城を遂に陥落させました。さらに富山城や新庄城など多数の城を攻略し、越中の東部から中部にかけての敵対勢力、特に椎名康胤や一向一揆を圧倒し、一時は優位を確立していました。

一揆勢の反攻と上杉軍の苦戦

元亀2年（1571年）4月、武田信玄は石山本願寺の顕如を通じ、北陸における一向一揆の指導者である杉浦玄任に、加賀・越中の一揆が協力して謙信に対抗するよう働きかけました。

この要請に応じ、元亀3年（1572年）5月、顕如から総大将に任じられた杉浦玄任率いる加賀一向一揆が挙兵。これに呼応して越中一向一揆の拠点である勝興寺（顕栄）や瑞泉寺（顕秀）、そして椎名康胤や神保長城が一斉に蜂起しました。当時、謙信は関東で武田信玄や北条氏政と対峙しており、自ら越中へ赴けず、越中方面は河田長親らが指揮しました。

加賀一揆との合流により3万を超える大軍となった一揆勢に対し、上杉方は苦戦を強いられます。5月には、上杉方の前線基地である日宮城が一揆勢の激しい攻撃を受け危機に陥りました。救援に出陣した上杉方の諸将は、6月15日に神通川を越えた五福山で一揆勢と衝突しましたが（五福山の戦い）、数の差は大きく敗退しました。新庄城への退却中に追撃を受け、大敗を喫します。援軍を得られなくなった日宮城はその日のうちに開城し、一揆勢は勢いを駆って神通川西岸の白鳥城や東岸の富山城をも陥落させました。一連の攻勢により、一揆勢は越中の西部から中部にかけて勢力を拡大し、上杉方の新たな拠点となっていた新庄城は落城の危機に瀕しました。

謙信の出陣と尻垂坂での攻防

越後で越中の窮状を知った謙信は、関東の北条氏政への対処を養子・長尾顕景に任せ、8月6日に自身は越中への出陣を決断、10日に約1万の軍勢を率いて越中へ向かいました。18日には新庄に到着し、先着の上杉軍と合流することで、兵力において一揆勢に対抗できる態勢を整えました。これにより、富山に陣取って新庄城を攻める一揆勢に対し、劣勢を挽回し始めます。

しかし、一揆勢は依然として大軍であり、信仰に基づく強固な団結力と多くの鉄砲を有していたため、新庄城を巡る攻防は一進一退の状況が続きました。杉浦玄任も加賀の一揆勢に援軍を要請するなど、双方とも力を尽くしました。

その後、新庄城と富山城の中間にあるとされる尻垂坂で両軍が激しい野戦を展開したとする説がありますが、この地での具体的な戦闘を示す信頼できる一次史料は確認されていません。後世の編纂物には具体的な描写も見られますが、裏付けに乏しい状況です。天保年間の『越中旧事記』に尻垂坂が合戦地との記述はありますが、詳細はありません。また、関連付けられてきた「薄地蔵」も、近年の調査で戦いより古い年紀と判明し、関連性は否定されています。一揆方からの戦況報告史料は存在しますが、内容に矛盾点も見られます。

戦闘が続いていたとみられる9月17日未明、富山城に籠る一揆勢は突如退却を開始しました。同日夜には、謙信の要請を受けた飛騨の江馬輝盛が援軍として到着しています。上杉軍は神通川を渡り、一揆方の滝山城を攻撃し陥落させました。10月1日には富山城が落城。18日には椎名康胤が降伏を申し出ますが、この時は許されず、謙信は越後へ帰国しました。

合戦後の影響と越中平定

尻垂坂の戦いを含む一連の攻防で、越中中部から一揆勢は駆逐され、その勢力は衰退しました。元亀4年（1573年）正月、一揆勢から和議が提案され、謙信はこれを受け入れました。この和議を機に、椎名康胤は上杉家臣らを介して再び謙信に許しを請い、認められたことで居城の松倉城を開城しました。

謙信は富山城を確保して越後へ帰る途中、一揆勢が再び富山城を奪ったとの報を受け、引き返してこれを奪還、椎名康胤も再度降伏させました。敗走した一揆勢は神通川を渡河し、これにより神通川以東の越中は完全に謙信の支配下となりました。

同年7月から8月にかけて、謙信は再度越中へ出陣し、敵対を続ける残党や一向一揆勢を最終的に撃破しました。これにより、謙信は越中をほぼ平定するに至りました。この後、謙信は関東の北条氏政を牽制しつつ、加賀・能登への西進を進め、京への上洛を目指すことになります。一方、加賀・越中の一向一揆は、後に謙信と和睦し、共通の敵である織田信長と対抗していく道を歩むことになります。尻垂坂の戦いで総大将を務めた杉浦玄任は、越前へ転戦し、越前一向一揆を主導しました。

尻垂坂の戦いは、上杉謙信が越中における覇権を確立する上で非常に重要な一戦であったと言えます。

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