熊十力

熊十力（ゆう じゅうりき、1885年 - 1968年5月23日）は、中国の近現代における傑出した思想家、そして新儒家を代表する学者です。本名は継智でしたが、後に升恒、定中と改名し、最終的に十力と称しました。子真や漆園老人といった号も用いています。

彼の生涯は、激動の中国近代史と深く関わっていました。1885年、湖北省黄州府黄岡県に生まれた熊十力は、郷村の塾教師であった父を持ちましたが、幼くして両親を亡くすという困難な幼少期を送りました。父の友人である何檉木のもとで郷塾に学び、若くして軍隊に身を投じます。1911年の辛亥革命の一環である武昌起義にも参加し、湖北督軍府の参謀を務めるなど、当初は軍事・政治の道を進んでいました。

しかし、1917年に広州で参加した孫文による護法運動の失敗が、彼の人生における大きな転換点となります。政治活動に失望した彼は、哲学研究に専念することを決意しました。1920年には南京の支那内学院に入り、当時の仏教学の大家であった欧陽竟無大師から仏教を深く学びました。その後、武昌の文華大学、天津の南開中学、北京大学、浙江大学といった著名な教育機関で教鞭を執り、思想家としての地歩を固めていきます。

日中戦争が勃発すると、1937年に故郷の黄岡に戻りますが、翌年には戦火を避けて四川省に移り住み、抗日戦争終結までそこで過ごしました。この時期、楽山の復性書院で宋明理学を講義するなど、教育活動を継続します。彼は、民族が存続するためには、その民族固有の哲学や文化が不可欠であるという強い信念を持っていました。この信念から、儒家の学説に対する精力的な研究を開始しました。胡適らが提唱した「全盤西化」（全面的欧米化）の主張には批判的な立場を取り、安易な西洋文化の模倣に警鐘を鳴らしました。しかし、彼は単に伝統を守るだけでなく、儒教の経典を聖賢の言葉として無批判に受け入れるのではなく、徹底的な反思（自己批判・再検討）を加えました。さらに、伝統的な儒学の枠を超え、諸子百家や仏教思想をも取り込み、これらを融合させることで、思弁的かつ緻密な独自の中国哲学体系を創造したのです。

彼の思想が集大成されたのは、1944年に上梓された主著『新唯識論』（語体文本）です。この書は、彼の最も重要な思想書であり、独自の哲学体系が確立されたことを示しています。興味深いのは、『新唯識論』には文言文本と語体文本の二つの版があり、文言文本がまだ「新仏家」的な色彩を残しているのに対し、後に刊行された語体文本は「新儒家」としての彼の思想がより明確に表現されている点です。この『新唯識論』に加え、『十力語要』や『十力語要初続』といった著作を通じて、熊十力の新儒家哲学の主要な内容が展開されました。

第二次世界大戦終結後、中華人民共和国が成立すると、彼は政治の舞台にも再び関与します。解放後最初の首届全国政治協商会議に参加し、その後も第4期まで連続して全国政協委員に選出されるなど、一定の政治的地位を保ちました。しかし、1966年に文化大革命が始まると、熊十力とその一家も批判の対象となります。紅衛兵による理不尽な行為に対し、彼は深い悲憤を覚え、中央に抗議文を送ったり、街頭や公園に「中国文化は滅びた！」といった悲痛な言葉を書き残したりして抵抗の意思を示しました。そして1968年、ついに絶食による抗議を行います。その後は減食に戻しましたが、体力が著しく低下し、同年5月23日、上海の病院で波乱の生涯を閉じました。

熊十力は、新儒家を代表する存在として、「熊学」と呼ばれる独自の思想体系を確立しました。その学問は中国国内のみならず海外にも多くの研究者を生み出し、『大英百科全書』でも中国現代哲学における傑出人物として紹介されています。彼の思想は、哲学者の牟宗三、唐君毅、徐復観といった「三大弟子」に大きな影響を与え、彼らは熊十力と異なり大陸を離れて香港や台湾でその学問を広めました。主著『新唯識論』は日本語訳も出版されており、その思想は今なお研究の対象となっています。

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