甲斐国志

『甲斐国志』について

『甲斐国志』は、江戸時代後期、文化11年（1814年）に完成した甲斐国（現在の山梨県）の地誌です。全124巻という膨大な量で、甲斐国の歴史、地理、文化、制度など多岐にわたる情報を網羅的に記録しています。編纂の中心人物は、甲府勤番の松平定能（伊予守）であり、幕府の地誌編纂事業の一環として作成されました。

編纂の背景

江戸時代には、街道の整備や識字率の向上により、地域に関する記録や伝承が活発に著されるようになりました。甲斐国でも、『甲斐覚書』や荻生徂徠の『峡中日記』など、先行する地誌が存在していました。

19世紀初頭は、全国的に飢饉や一揆が頻発し、社会不安が高まっていた時期でした。幕府は、寛政の改革の一環として文教政策を推進し、各地で地誌編纂を奨励しました。これにより、昌平坂学問所に地誌調所が設置され、『甲斐国志』もその一環として編纂されました。

地誌調所は、中国の地誌に倣わない日本独自の地誌の編纂を目指し、絵図を多用した分かりやすい構成と、漢字かな交じりの文体を採用しました。最終的には、全国の地誌を統合した「日本総志」の編纂を目標としていました。

編纂者と協力者

『甲斐国志』の編纂は、甲府勤番の滝川利雍（出羽守）の在任中に始まり、後任の松平定能によって引き継がれました。編纂の中心となったのは、徽典館学頭の富田武陵、都留郡の長百姓である森嶋基進、巨摩郡の長百姓である内藤清右衛門、そして松村弾正左衛門です。

富田武陵：徽典館学頭として、編纂のための史料調査を主導。多くの文人と交流し、編纂事業に貢献しました。
森嶋基進：都留郡の編纂主任として、自身の私塾である朋来園を編纂所として活用しました。
内藤清右衛門：巨摩郡の編集主任として、編纂の実務を担い、草稿の作成にも深く関わりました。
松村弾正左衛門：伊豆で地誌編纂の経験を持ち、自身の筆録である『臆乗』を『甲斐国志』の編纂に活用しました。

これらの人物を中心に、地域の長百姓や寺社の関係者などが協力し、史料の収集や調査が行われました。

編纂過程

編纂作業は、まず史料調査から始まりました。村々の名主や長百姓に通達が出され、古文書や系図、寺社の縁起、名所・古跡、伝承などが調査されました。集められた史料は、徽典館や内藤清右衛門の自宅などで整理・編纂されました。

編纂作業は、松平定能の転任によって一時中断しましたが、大学頭・林述斎の指示により加速しました。文化11年（1814年）に完成した『甲斐国志』は、幕府に献上され、将軍徳川家斉の閲覧に供されました。

編集・執筆方針

『甲斐国志』は、官撰の書物でありながらも、私撰の体裁を取り、旧説や臆説を排し、根拠に基づいた記述を心掛けました。例えば、甲州金については、その起源を不明としながらも、関連する史料を示しつつ考察しています。

一方で、武田家に関する記述は『甲陽軍鑑』に依拠している点や、寺社の縁起に関して伝承化した逸話を記している点など、資料的な限界も指摘されています。

また、徳川将軍家に対しては敬称を使用している一方で、武田信玄や柳沢吉保に対しては敬称を使用していないなど、当時の政治的な配慮も見て取れます。ただし、徳川忠長に対しては「発狂」と記すなど、率直な記述も含まれています。

構成

『甲斐国志』は、首巻、本文118巻、附録5巻から構成されています。

首巻：序、巻数、目録、引書
巻一：提要部、国名、郡名、道路など
巻二：国法部
巻三 - 巻一九：村里部
巻二十 - 巻三七：山川部
巻三八 - 巻五四：古蹟部
巻五五 - 巻七二：神社部
巻七三 - 巻九十：寺社部
巻九一：修験山伏也役の行者法流
巻九二 - 巻一百：人物部
巻一百一：人物部附録
巻一百二 - 巻一一八：士庶部
* 巻一一九 - 巻一二三：附録

各巻は、地域ごとに詳細な情報を網羅しており、歴史、地理、文化、制度など、多角的な視点から甲斐国を捉えています。

『甲斐国志』の位置づけ

『甲斐国志』は、編纂当時から高い評価を受けており、同時代の地誌である黒川春村の『並山日記』や徽典館学頭の引用例があります。

また、文政3年（1820年）に完成した地誌調所の間宮士信が編纂した『編脩地誌備用典籍解題』にも、甲斐国の地誌32点の一つとして掲載されており、『五畿内志』に準じた地誌類として位置づけられています。

『甲斐国志』は、現代においても、甲斐国の歴史研究における重要な基礎史料として広く引用されています。

草稿と刊行本

編纂過程の草稿は、内藤家や森嶋家に残されており、一部は山梨県指定有形文化財に指定されています。これらの草稿は、刊行本に反映されていない情報も含んでおり、貴重な歴史資料となっています。

刊行本としては、『大日本地誌大系』収録本や『甲斐志料集成』、『甲斐叢書』収録本などがあります。幕府献進本は国立公文書館の内閣文庫に、写本は山梨県立図書館や東京大学、京都大学などに所蔵されています。

まとめ

『甲斐国志』は、江戸時代後期に編纂された甲斐国の総合的な地誌であり、幕府の地誌編纂事業の一環として作成されました。その内容は、地域の歴史、地理、文化、制度など多岐にわたり、当時の社会状況や文化を理解する上で欠かせない貴重な史料です。編纂に関わった人々の努力と、詳細な記述は、現代の私たちにとっても重要な情報源であり、甲斐国、そして山梨県の歴史を深く知る上で不可欠な存在と言えるでしょう。

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