長八の宿

『長八の宿』（ちょうはちのやど）は、つげ義春による日本の漫画作品。1968年1月に『ガロ』（青林堂）に発表された全24頁からなる短編漫画。

概要

つげ義春の代表的な「旅もの」作品の一つ。1968年はつげにとって多作の年であり、「二岐渓谷」「オンドル小屋」「ほんやら洞のべんさん」「ねじ式」「ゲンセンカン主人」「もっきり屋の少女」など、多くの傑作が生まれた。本作は、それらの中でも特に明るく、清涼感のあるタッチで描かれているのが特徴。

舞台は実在する旅館「山光荘」がモデル。つげは作品発表の前年、1967年8月に実際に山光荘に宿泊しており、旅の印象が色濃く反映されている。わずか2ヶ月で作品を完成させたことからも、当時のつげが旅の気分に浸り、自然から受ける印象を大切にしていたことが伺える。

作中には、主人公が宿の下男であるジッさんにパンフレットを読んで聞かせるシーンがある。つげ自身は後に、「よくこんなシーンを自分で作ったな」と回想している。

あらすじ

主人公の青年は、西伊豆の松崎町にある「長八の宿」海風荘に宿泊する。宿で働く下男のジッさんと親しくなり、宿の娘マリや彼女の恋人の話を聞く。ジッさんは昔、千葉で漁師をしていたが、嵐で遭難し松崎に流れ着いたという。彼は宿のパンフレットを取り出し、マリの文才やエッチな女中トヨについて語り始める。

作品の舞台

作品の舞台は、西伊豆松崎町にある旅館「山光荘」。宿の内装や伊豆の風景が細やかに描写されている。作中では「海風荘」という名で登場する。

山光荘の女将は、作品発表から16年後の1983年につげ義春の自宅を訪れ、感謝の言葉を伝えたという。現在も年賀状を交わすなど、親交が続いている。女将は、マスメディア関係の宿泊客に依頼して、つげの住所を突き止めた。

つげ自身は、山光荘をモデルにしたものの、内容はフィクションであるため、宿に迷惑をかけたのではないかと心配していた。

山光荘は元々造り酒屋で、廃屋となっていたものを女将が改築して旅館にした。作中では、元網元が宿屋に転業したという設定になっている。宿の娘マリ、女中のトヨ、下男のジッさんはいずれも創作上の人物だが、実際に当時女子大生の娘がいたのは事実。

また、作中に登場する人物が、2014年時点でも繁忙期に手伝いとして働いていることがあり、運が良ければ会うことができる。

伊豆半島周遊

つげが伊豆半島を訪れたのは1967年8月10日。当時30歳。山光荘は開業1年目で、まだ固定客が少なかった。その後、テレビ番組『遠くへ行きたい』の取材を受けたり、横溝正史原作の映画にも利用された。

同行者は友人の立石慎太郎。当時、西伊豆はまだ未開発で鄙びた雰囲気が残っており、立石の車で三島から伊豆半島に入った。湯ヶ島の「湯川屋」に宿泊し、梶井基次郎が絶賛した渓谷美を堪能。修善寺温泉よりも優れていると評価した。

その後、土肥峠を越え、宇久須の黄金崎を見て西伊豆へ。堂ヶ島から松崎を通過し、雲見で少し遊んだ後、妻良へ向かおうとしたが、道が未開通だったため松崎へ引き返した。宿を探すも満室で断られ、最終的に「長八の宿」山光荘に宿泊することになった。その日は、山光荘で最も上等な部屋である「長八の部屋」に通された。鯛の尾頭付きの料理が振る舞われ、盆踊りの太鼓の音が聞こえてきた。

翌日は、石廊崎、下田を見学し、伊東近くの八幡野にある釣り宿「つり作」に宿泊。宿には小学2、3年生くらいのませた女児がおり、つげに話しかけてきた。女児は全身に蚊に刺されたような炎症があったが、宿の主婦の妹の子であることが分かった。つげは、このエピソードを後に『庶民御宿』に利用した。

「つり作」では、立石が不機嫌になり、翌朝には宿の女児と2人で八幡野岬へ出かけた。そこでつげは、柱状節理の岩場という奇勝を見つけ感激した。

元ネタ

作中に登場するジッさんの設定は、つげの義理の祖父が漁師で、台風で伊豆方面に流された経験があるという話が元になっている。ただし、義理の祖父は東京湾に寄って魚を処分したという。

人物造形においては、特にモデルはいない。『紅い花』の構想を聞いた高野慎三が、『南風』の主人公である初老男性がジッさんの原形ではないかと質問したが、つげは否定している。宿の娘マリについても、実際の娘をモデルにしたわけではないと答えている。

細部のリアリズム

つげは、作品の細部に徹底的にリアリズムを追求する。方言の使い方にも注意を払い、安易な「東北訛り」のようなパターン化された表現を避ける。ジッさんの台詞に「オメ」という言葉が頻繁に出てくるが、「オメエ」としないのは、つげのこだわりである。

評価

高野慎三は、「二岐渓谷」の老夫婦、「オンドル小屋」の少女、「ほんやら堂のべんさん」と同様に、この作品のジッさんの姿は、ユーモアたっぷりに、しかし哀切に描かれていると評価している。読者は彼らの過去と未来を思い、暗澹たる思いを描くかもしれない。が同時に作中の彼らもそんな生活から脱却や飛翔も可能であったことを鑑みれば、読者であるわたしたちが寄せる作中人物への心情は、ただの思い上がりかもしれない。では作者も思い上がっているのかと言えば、そうではなく、作者はジッさんや少女やべんさんとともに下降しているのかもしれない。なぜなら、つげは傍観者ではなく、当事者なのだから。彼らに作者の姿が仮託されているのだ。観念上の庶民と共存することで、深い孤独からの自己救済を試みたのだ。

もう一度検索