庶民御宿

庶民御宿

『庶民御宿』は、つげ義春が1975年に発表した短編漫画作品です。つげの代表的な「旅もの」の一つとして知られ、ユーモラスな会話劇と、緻密に描写された情景が魅力です。

概要

本作は、つげ義春が1975年4月に「漫画サンデー」に発表した27ページの短編作品です。双葉社のアクションコミックス『リアリズムの宿―つげ義春「旅」作品集』に収録されています。

『海辺の叙景』、『紅い花』、『西部田村事件』、『長八の宿』、『二岐渓谷』、『オンドル小屋』、『ほんやら洞のべんさん』、『リアリズムの宿』などに続く「旅もの」シリーズの作品で、最後から2番目に位置します。この後、5年後の『会津の釣り宿』をもって「旅もの」は終わりを迎えます。

舞台は、つげが「酒井荘」というアパートに住んでいた時代。この時期には『退屈な部屋』、『日の戯れ』といった作品も生まれています。

物語の着想は、房総半島への実際の旅行体験に基づいています。実在の地名が散りばめられていますが、あくまでフィクションとして構成されています。巧みなストーリー展開、漫才のような掛け合い、そして畳の目一つ一つまで描き込まれた緻密な描写は、つげ作品の中でも際立っています。特に、宿屋やセックスシーンの描写は生々しく、多くの読者を惹きつけました。

つげは、行商人と商人宿を題材にした作品を書きたいという思いから本作を執筆したと語っています。

また、本作では遠近法を無視したり、人間と畳の大きさを意図的に変えるなど、新たな画法が試みられています。これらの技法は、後の「夢もの」と呼ばれる作品群でさらに発展していきます。

あらすじ

主人公の青年とその友人は、バイクで千葉県の千倉へ海水浴に出かけますが、道に迷ってしまいます。途中で知り合った行商人の紹介で、一人暮らしの老婆の家に泊めてもらうことになります。老婆に勧められ、ウイスキーを飲んで酔いつぶれた後、行商人から過去の罪深い告白を聞かされます。

5年前、行商人は鴨川の宿屋の夫婦と親しくしていました。夫婦は子宝に恵まれず、悩んでいました。ある夜、主人は行商人に「妻に母親としての喜びを味あわせてやりたい」と懇願します。困惑した行商人は、その夜、奥さんの部屋を覗くと、奥さんは一人で本を読んでいました。翌日、奥さんから「恥をかかせないで、長いこと考え抜いた事なんです」と告げられ、ついに奥さんと関係を持ってしまいます。その後、行商人は深い罪悪感に苛まれるようになります。

行商人の告白を聞いた青年たちは興奮しますが、寝ていたはずの老婆も起きて聞き耳を立てていたことがわかります。

さらに3年後、行商人が宿屋を訪れると、夫婦には子供が生まれていました。行商人は「自分の愚劣な心も知らずに生まれてしまった子が不憫でならない」と嘆きます。青年たちは「人間の生まれるのは偶然じゃないですか」と慰めますが、妻子持ちの行商人には響きません。

翌日、青年たちは行商人が話していた鴨川の宿屋を訪れます。そこで、宿のお手伝いのおばさんから、子供は養子であることを聞かされます。奥さんは無愛想で、床の間には主人が書いた「一日一善」という掛け軸が飾られています。二人は次第に興ざめしていきます。

翌日、房総半島の海岸線を北上するバイクの後ろ姿が描かれ、

「やるじゃないの庶民も」
「ニヒリストも顔色なしだ」

という二人の会話で物語は締めくくられます。

作品の元になった旅

1966年8月、つげは友人の立石とバイクで千葉の内房へ海水浴に行きました。その際、東京湾観音や那古寺を見物し、日が暮れて宿を探しました。千倉へ向かう途中で道に迷い、ようやく一軒の寿司屋と旅館を見つけました。周囲は田んぼばかりの寂しい場所で、宿屋は時代劇のセットのような趣のある建物でした。つげは、そこで出会った上品な女中に心を惹かれました。出発の際、女はバイクが見えなくなるまで手を振って見送ってくれたそうです。

その他

権藤晋は、つげとのインタビューで「つげさんって、エッチですね」と評しました。つげは「吉行淳之介に次いでかなあ」と答えています。

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