日本政治思想史研究

『日本政治思想史研究』（にほんせいじしそうしけんきゅう）は、思想史家・政治学者である丸山眞男（まるやままさお）によって著された、彼の初期における代表的な研究成果の一つです。複数の論文をまとめて1952年に東京大学出版会から刊行され、1953年には毎日出版文化賞を受賞しました。日本政治思想史という学問分野において、今なお参照され続ける記念碑的な著作として位置づけられています。

内容

本書の中心的なテーマは、近世日本の徳川政権下で体制教学としての地位を確立していた朱子学的思惟が、いかにして徐々にその絶対性を失い、解体されていったかという歴史的過程をたどることにあります。丸山は、この朱子学の変容や解体の中に、日本の思想が近代へと移行していく萌芽を見出しました。

朱子学解体の担い手として、本書は多様な思想家たちを取り上げています。具体的には、儒学者の伊藤仁斎（いとうじんさい）や荻生徂徠（おぎゅうそらい）、国学者の本居宣長（もとおりのりなが）、思想家・社会運動家とされる安藤昌益（あんどうしょうえき）、そして近代啓蒙思想家の福澤諭吉（ふくざわゆきち）などが挙げられます。中でも、丸山は荻生徂徠の思想に特に注目し、その特質を詳細に分析しています。

これらの思想家や思想の変遷を論じるにあたり、丸山は西洋哲学や社会科学の概念や枠組みを積極的に導入しました。例えば、「自然」（ザイン）と「作為」（ゾルレン）の対立、「存在」と「当為」の関係といった西洋哲学に由来する概念や、自然法論、ヘーゲル、ボルケナウ、マンハイム、テンニース、シュミットといった思想家・理論家の知見、さらにはマルクス主義歴史学の方法論なども援用しながら、日本思想の分析を試みています。

執筆・刊行の背景

本書は、丸山が東京帝国大学法学部を卒業後、南原繁（なんばらしげる）のもとで研究を始めた時期に執筆された複数の論文を基にしています。当初、丸山自身は日本の伝統思想にはあまり関心を持たず、西洋政治思想史の研究を志向していました。しかし、師である南原の意向により、新設予定だった東洋政治思想史講座（実際には国体学研究を目的としたものでしたが、南原は客観的な学術研究の場として運営しようとしました）への所属が決まり、日本政治思想史の研究に取り組むことになります。

彼のこの分野での最初の大きな成果は、1940年に助手論文として発表された「近世儒教の発展に於ける徂徠学の特質並にその国学との関連」でした。この論文は『国家学会雑誌』に掲載され、本書の基盤の一つとなります。その後、助教授に就任してからも、「近世日本政治思想における「自然」と「作為」」、「国民主義理論の形成」（書籍化にあたり「国民主義の「前期的」形成」と改題）といった関連論文を同誌に発表し続けました。「国民主義理論の形成」については、丸山が出征するまさにその日の朝に、新宿駅で同僚に原稿を託したというエピソードが伝えられています。

太平洋戦争中の過酷な従軍生活、広島での原爆投下による被爆、終戦、復員、そして大学への復帰を経て教授に就任するという激動の時期を経て、丸山はこれらの戦中に執筆された論文を改めてまとめ、1952年に『日本政治思想史研究』として刊行しました。

本書の内容には、執筆当時の戦時下の状況が伏流している側面も指摘されています。例えば、戦時体制下では肯定的に捉えられがちだった本居宣長について、丸山はあえてその反体制的、反幕府的な側面を浮き彫りにしようと試みました。晩年、丸山は自らの幅広い業績の中で、現代政治学に関する著作群を「夜店」に例え、本書のような思想史研究こそが自身の仕事の「本店」であると述懐しています。

本書は、その後1974年に英訳が出版され、1983年の新装版にはこの英訳への序文の日本語版が収録されました。また、中国語（繁体字・簡体字）、フランス語、韓国語など、様々な言語に翻訳されています。

受容と批判

『日本政治思想史研究』は、刊行当初は若手研究者による斬新かつ挑戦的な論として受け止められました。しかし、その学術的な評価が確立されるにつれて、この分野における権威的な地位を占めるようになり、多くの研究者にとっての基礎文献、あるいは教科書的な著作として読まれるようになりました。中国思想史における島田虔次の李贄研究や、日本中世史における黒田俊雄の権門体制・顕密体制論なども、同様の道をたどった例として挙げられます。

一方で、本書に対しては様々な観点からの批判も提起されています。中でも重要なものとして、朱子学が日本の支配体制の「官学」として確立した時期を巡る議論があります。丸山は本書で近世初期の林羅山（はやしらざん）以降にその始まりを見出していましたが、尾藤正英（びとうまさひで）の『日本封建思想史研究』（1961年）や渡辺浩（わたなべひろし）の『近世日本社会と宋学』（1985年）などは、官学化はむしろ近世後期の寛政異学の禁（かんせいいがくのきん）以降であるという批判を展開しました。この「官学化時期論争」に関連して、思想史家の津田左右吉（つだそうきち）が、既に丸山に先立つ1917年の著作で同様の指摘を行っていたことも指摘されています。丸山自身も、1974年の英訳への序文において、朱子学の「官学化」がより後の時期に完成したものであることを認める訂正を行っています。

これらの受容と批判を経ながらも、本書が日本思想史研究に与えた影響は極めて大きく、その独特の方法論や問題意識は、現在もなお多くの研究者にとって重要な示唆を与え続けています。

主要書誌情報

『日本政治思想史研究』東京大学出版会、1952年（初版）
『日本政治思想史研究』東京大学出版会、1983年（新装版）
Studies in the Intellectual History of Tokugawa Japan, trans. by Mikiso Hane, University of Tokyo Press, 1974.（英訳）
その他、中国語、フランス語、韓国語訳などがある。

※ 丸山眞男の著作は、『丸山眞男集』（岩波書店）にも収録されています。

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