紀夏井

紀夏井（きの なつい）

紀夏井は、平安時代初期に活躍した貴族です。大納言・紀古佐美の曾孫にあたり、美濃守・紀善峯の三男として生まれました。官位は従五位上・右中弁にまで昇り、その才能と人柄で多くの人々に慕われました。

才能を開花させた初期

夏井は、書道に優れた才能を発揮し、特に隷書を得意としていました。その腕前を見込まれ、授文堂で書を学ぶよう命じられ、小野篁に師事しました。この頃から、夏井の才能は開花し始めます。

文徳天皇の側近として

夏井の才能は、文徳天皇に見いだされ、嘉祥3年（850年）に少内記に抜擢されました。その後も順調に昇進を重ね、六位蔵人、大内記を経て、斉衡2年（855年）には従五位下・右少弁に叙任されました。この時期、夏井は清貧でありながらも忠実に天皇に仕え、その働きぶりから天皇の信頼を得て、一軒の家を与えられたという逸話も残っています。さらに、斉衡4年（857年）には従五位上・右中弁に昇進し、天皇の側近として重要な政務を担うようになりました。夏井は、天皇の意志を忠実に把握する一方で、時には誤りを正すこともあり、その聡明さと鋭敏さで、物事を滞りなく処理しました。天皇は夏井の働きぶりを高く評価し、内外の重要な政務を任せ、重用しました。

地方官としての善政

天安2年（858年）に文徳天皇が崩御し、清和天皇が即位すると、夏井は讃岐守に転任し、地方官としての道を歩み始めます。讃岐では、善政を施し、官人や民は満足し、治安も行き届いた状態でした。4年の任期を終えた後も、百姓たちの懇願により、さらに2年間讃岐守の任に留まりました。その間、人々は富み栄え、食料の備蓄も十分になり、新たに40棟の大蔵を建て、籾を納めて万が一に備えたといいます。

失意の晩年

貞観7年（865年）には肥後守に任じられ、ここでも領民に慕われましたが、翌年、応天門の変が起こり、異母弟・豊城が共謀者の一人として逮捕されたことで、夏井も連座してしまいました。肥後守の官職を解かれ、土佐国への流罪となり、中央・地方を問わず人望のあった夏井の失脚は、紀氏の没落を決定的なものとしました。

土佐国へ護送される際、肥後の人々はまるで父母を失ったかのように嘆き、夏井の移送を拒もうとしたり、讃岐の人々は、讃岐から土佐の国境まで付き従い、別れを惜しんだという逸話が残っています。夏井自身も、事件に全く関与していなかったにもかかわらず、連座して流罪になったことを嘆いたとされます。その後、母が亡くなると草堂を建てて亡骸を安置し、生前と変わらず朝晩の礼を欠かさなかったと言います。また、以前から篤かった仏教への信仰心から、3年の喪が明けるまで毎日、草堂の前で大般若心経50巻を唱えたとされています。その後の動静は詳しく伝わっていませんが、配所で没したと伝えられています。

多才な人物像

夏井は、容姿は大雑把で大らかであり、身長は6尺3寸（約190cm）の大男だったとされています。性格は温和で思いやりがあり、清貧で無欲でした。讃岐守の任期を終えて帰京する際、人々が多くの物品を贈ろうとした時も、夏井はそれらを決して受け取らず、帰京後も紙と筆のみを残し、他は全て返送したという逸話も残っています。

書道においては、師事していた小野篁から「真書（楷書）の聖」と激賞されるほどの腕前でした。また、医薬の道にも通じており、土佐国へ配流された後には、山沢で薬草を採取し調合して人々に施し、非常に高い効果があったと言われています。あるとき、中風で髪を振り乱して狂い走る人がいた際、夏井が一匙の散薬を与えて服用させたところ、たちどころに治ったという逸話も残っています。

さらに、雑芸にも通じ、特に囲碁を得意としていました。10代前半の頃には、延暦の遣唐使に随行した碁師の伴少勝雄に囲碁を習いますが、1、2年のうちにほとんど伴少勝雄を越えるほどの腕前に上達したと言います。また、射覆（易経を使った当てもの遊戯）も得意で、文徳天皇が蔵鉤（小石を掌中に掴み、石の数あるいは石をどの手に掴んでいるかを当てる遊戯）の遊びをした際に、こっそり夏井に占わせたところ見事に的中させたと言います。

逸話

文徳天皇が即位後に夏井を召した際、夏井は貧しく身なりは粗末だったため、近臣たちは嘲笑しました。しかし、天皇は嘲笑した者たちに対し、「これは疲駿（食足らずして疲弊した千里の駒）というものだ、どうして笑うべきであろうか」と言い、小内記に抜擢するなど、その後夏井を寵遇したといいます。

また、肥後守に任ぜられた際、夏井の母は号泣しました。その理由を尋ねると、「肥後の風俗を聞くところによると、清廉な国司はその任を全うできないという、我が子は全うできないに違いない」と答えたとされます。母の心配通り、夏井は応天門の変に連座して任期途中で解官の上、流罪に処されることとなりました。

夏井が讃岐守の任期を終えて20余年後、菅原道真が讃岐守として現地に赴任した際、讃岐の人々は紀夏井の善政を忘れておらず、道真は夏井と比較され国政運営で難渋したという逸話も残っています。

経歴

以下は、『六国史』に記録されている紀夏井の経歴です。

嘉祥3年（850年）7月：少内記
仁寿4年（854年）1月：六位蔵人、兼美濃少掾（日付不明）、辞美濃少掾（兄・大枝に譲る）
時期不詳：正六位上
斉衡2年（855年）日付不詳：大内記、9月27日：従五位下、右少弁、去蔵人・大内記
斉衡4年（857年）1月7日：従五位上、1月14日：兼播磨介、5月8日：兼式部少輔、6月19日：右中弁、式部少輔・播磨介如元
天安2年（858年）11月25日：讃岐守
貞観4年（862年）日付不詳：讃岐守
貞観7年（865年）1月27日：肥後守
貞観8年（866年）9月22日：配流土佐国（応天門の変連座）

その他

高知県香南市野市町母代寺には、紀夏井が流された土地という伝承があり、同地の亀山で古代瓦が出土したことから、紀夏井の邸宅跡と推定され、「紀夏井邸跡」として高知県指定史跡に指定されています。しかし、その後の調査で、瓦や須恵器の登窯・灰捨場が多く見つかったことから、同地は邸宅跡ではなく窯跡（亀山窯跡）であるとされています。

脚注

[参考文献]
武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 上巻』戎光祥出版、2009年9月
* 井上辰雄「紀夏井-清爽な文人官僚」（史聚：第39・40記念号）史聚会 2007年3月

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