芝蘭堂

芝蘭堂

芝蘭堂（しらんどう）は、江戸時代後期に著名な蘭学者である大槻玄沢（おおつき げんたく、別号：磐水）が、当時の江戸に設けた私設の蘭学塾です。また、芝蘭堂という名称は、玄沢自身の別号（堂号）としても用いられました。

沿革と概要

塾の創設者である大槻玄沢は、まず江戸において当代一流の蘭学者であった杉田玄白（すぎた げんぱく）と前野良沢（まえの りょうたく）のもとで蘭学と医学を深く学びました。玄沢という名は、師である玄白と良沢それぞれの名から一字ずつ取って名付けられたといわれています。その後、天明5年（1785年）にはさらなる知見を求め、長崎へ留学。そこでオランダ通詞（通訳）として活躍していた本木良永（もとき りょうえい）や吉雄耕牛（よしお こうぎゅう）らから、高度なオランダ語を習得しました。

翌天明6年（1786年）5月に江戸へ帰った玄沢は、杉田玄白の邸宅に身を寄せつつ、仙台藩医として幕府に仕えることになります。同年8月には、日本橋本材木町に自らの居を構え、「幽蘭堂（ゆうらんどう）」と称しました。その後、一時郷里へ戻って家族を呼び寄せ、天明8年（1788年）に三十間堀（さんじっけんぼり）へ移転します。この年、玄沢は蘭学を志す者にとって画期的な入門書となる『蘭学階梯（らんがくかいてい）』を著し、この分野で非常に高い名声を得ました。この著述活動を通じて、彼の私邸が「芝蘭堂」と改称され、本格的な蘭学塾として開かれたものと考えられています。

塾名の由来

「芝蘭（しらん）」という塾名は、文字通りには霊芝（れいし）と蘭（らん）という、共に芳しい香りを放つ草花を指し、そこから転じて良い香りのする草全体の総称として用いられる慣用句です。さらに、この言葉は古典漢籍において、優れた人物や君子に例えられてきました。例えば、『孔子家語（こうしけご）』には「善人とともにいれば、まるで香草の香り漂う部屋にいるように感化される」「芝蘭は人がいない深い森に生えていても、常に良い香りを放つ」といった一節があり、また『晋書（しんじょ）』にも「芳しい草や美しい木は、階段のそば（優れた先生の近く）に育つ」といった表現が見られます。これらの古典に由来する「芝蘭」の名は、優れた人々が集まり、互いに良い影響を与え合う学び舎であること、あるいは玄沢自身のような高潔な人物を象徴する意味合いが込められていると考えられます。一説には、この塾名は元々師である杉田玄白の塾号であり、玄沢が譲り受けたものだとも伝えられています。

門人教育と移転

芝蘭堂の門人帳にあたる『芝蘭堂入学盟規（しらんどう にゅうがく めいき）』の「載書（さいしょ）」には、寛政元年7月27日（1789年9月16日）に入門した3名（佐野立見、堀内林哲、宮崎元長）の署名が残されており、この時期が開塾の具体的な時期である可能性が高いとされています。しかし、載書に署名が見られないながらも、これ以前に入門していたとされる宇田川玄随（うだがわ げんずい）や橋本宗吉（はしもと そうきち）といった著名な弟子も確認されています。「載書」には、文政9年11月22日（1826年12月20日）に記帳した二宮玄碩（にのみや げんせき）に至るまで、約38年間にわたる94名の入門署名と血判が記録されていますが、署名のない弟子もいたことから、実際に芝蘭堂で学んだ者は100名を超えると推測されています。

また、芝蘭堂は玄沢の私邸を兼ねていたため、度々居を移しました。寛政5年（1793年）9月には京橋水谷町へ、同9年（1797年）4月には木挽町へ、文化3年（1806年）には采女原（うねめがはら）へ、そして文政2年（1819年）には築地へと、数年おきに転居を繰り返しています。

オランダ正月

寛政6年（1794年）、長崎から江戸へ来たオランダ商館長（カピタン）と日本人として初めて公の場で対談する機会を得た玄沢は、この経験を記念して、この年の閏11月11日が太陽暦の1795年元旦に当たることを祝い、芝蘭堂（当時、京橋水谷町に所在）にて多くの蘭学者仲間を招いて盛大な祝宴を開催しました。この宴は「新元会（しんげんかい）」と名付けられ、世にいう「オランダ正月」として大変有名になります。このオランダ正月は、蘭学者たちが集まり、情報交換や親睦を深める貴重な機会となり、玄沢の子・玄幹（げんかん）が亡くなるまで、実に44年間にわたって毎年続けられました。

継承と影響

文政10年（1827年）に玄沢が没した後も、芝蘭堂は彼の長男である玄幹（磐里）に引き継がれ、さらにその子である孫の玄東（げんとう、磐泉）へと継承されました。芝蘭堂は玄沢、玄幹、玄東の三代にわたり、江戸における蘭学研究と学習の中心的な役割を果たし続けました。

なお、玄沢は学者としてだけでなく、洒落やユーモアも持ち合わせた人物であったと伝えられています。「しらんどう」という塾名をもじって「無識堂（しらんどう）半酔先生」と自称したり、「医者商（いしゃあきない）」という戯作を書いたりするなど、その人となりが偲ばれます。

主な門人

芝蘭堂からは、多くの優れた蘭学者や医師が輩出されました。主な門人には以下のような人物がいます。

宇田川玄随
宇田川玄真
橋本宗吉
山村才助
稲村三伯（※載書に署名あり）
佐々木中沢
岡田甫説
市川岳山
小石元瑞（※載書に署名あり）
長谷川宗仙（※載書に署名あり）
* 中天游（※載書に署名あり）

（※印の人物は『芝蘭堂入学盟規』の載書に署名が見られる者です。太字で記されることもある「芝蘭堂四天王」や「玄沢四天王」といった特定の四人については、資料により異同が見られます。）

芝蘭堂は、江戸時代における蘭学の発展に貢献した重要な教育機関であり、多くの後進を育て、日本の近代化の礎を築く上で大きな役割を果たしました。

もう一度検索