赤旗事件

赤旗事件（せっきじけん／あかはたじけん）

1908年（明治41年）6月22日に発生した、社会主義者に対する政府の弾圧事件です。「錦輝館事件」や「錦輝館赤旗事件」とも呼ばれます。

事件の背景

明治時代後期、日本では労働環境改善などを求める社会運動が活発化していました。これに対し、政府は1900年（明治33年）に治安警察法を制定し、これらの運動を厳しく規制する方針を採ります。翌1901年には、幸徳秋水らによって日本初の社会主義政党「社会民主党」が結成されましたが、第4次伊藤内閣によってわずか2日後に禁止されました。これ以前にも、安部磯雄らが設立した社会主義協会が解散させられるなど、社会主義運動に対する政府の態度は極めて厳しいものでした。

状況が変わったのは、1906年（明治39年）に第1次西園寺公望内閣が発足してからです。西園寺首相は、社会主義をいたずらに弾圧せず、穏健な活動は容認する姿勢を示しました。これにより、同年1月には日本初の合法的な社会主義政党である「日本社会党」が誕生します。しかし、党内では幸徳秋水らが主導する暴力革命をも辞さない「直接行動派（硬派）」と、議会を通じた合法的な政権獲得を目指す田添鉄二らの「議会政策派（軟派）」が激しく対立しました。政府は硬派の存在を危険視し、結局、結党からわずか1年ほどで治安警察法違反を理由に日本社会党に結社禁止命令が下されました。

事件の発生

このような社会情勢の中、1908年（明治41年）6月22日、東京・神田の映画館「錦輝館」に数十名の社会主義者が集まり、山口孤剣の出獄を祝う歓迎会が催されました。山口は前年、『平民新聞』に封建的な家族制度を批判する論文「父母を蹴れ」を発表したことで新聞紙条例違反に問われ、禁錮刑を受けていました。歓迎会は、山口と同じく筆禍事件で投獄され、山口より早く出獄していた平民新聞記者の石川三四郎が、対立する硬派と軟派の両派に共同での開催を働きかけて実現したものでした。

歓迎会は石川の開会宣言で始まり、西川光二郎や堺利彦らの挨拶に続いて余興が行われ、夕方には散会する予定でした。しかし、会が終わりかける頃、荒畑寒村、大杉栄、村木源次郎、宇都宮卓爾ら硬派の一団が突然、赤地に「無政府共産」「社会革命」「SOCIALISM」などと書かれた赤旗を掲げ、革命歌を歌い始めました。石川はこれを止めようとしましたが、硬派は応じず、「無政府主義万歳」と叫びながら錦輝館を飛び出しました。建物の外で待機していた警官隊は、赤旗を翻して現れた一団を見るやただちに駆け寄り、旗を奪おうとしました。これに抵抗した硬派と警官隊との間で激しい揉み合いが発生しました。この騒動で、赤旗を掲げた荒畑ら4名や、佐藤悟、徳永保之助、森岡栄治、百瀬晋、そして管野スガ、大須賀里子、小暮礼子、神川松子といった女性4名を含む多数が検挙されました。さらに、騒ぎを止めに入った堺利彦と西川光二郎、そして周囲の野次馬2名も逮捕されました。

逮捕された人々は神田警察署に連行され、腹を蹴られるなどの拷問を受けたとされます。東京二六新聞の記事には、堺利彦が牢屋の中で昏睡状態に陥ったことや、小暮礼子が苦しんでいるのに適切な手当てがなされなかったことなどが記録されています。

事件後、社会主義運動の指導者たちが多数逮捕されたことに社会主義者たちは動揺し、警察への反発を強めました。7月7日には、電柱に「来る十日日比谷公園にて大会を開き錦輝館の復讐を為す。来会者は石油、棍棒、燐寸携帯の事」といった集会を呼びかける貼り紙が見つかるなど、緊張が高まりました。

裁判

逮捕された14名は、官吏抗拒罪や治安警察法違反に問われ、1908年8月15日から東京地方裁判所で公判が始まりました。裁判では、被告人たちがそれぞれの立場から事件について主張しました。堺利彦は、警官が暴力的に旗を奪おうとしたのが原因だと訴え、佐藤悟は自らが率先して革命歌を歌い「無政府主義万歳」と叫んだことを認めました。大杉栄は、警官が不当に旗を奪おうとしたことに対する正当防衛だったと主張しました。

8月29日に判決が下されました。神川松子と管野スガは無罪となり、徳永保之助と小暮礼子には執行猶予がつきました。しかし、大杉栄には重禁錮2年6ヶ月と罰金25円、堺利彦、西川光二郎、森岡栄治には重禁錮2年と罰金20円、荒畑寒村、宇都宮卓爾には重禁錮1年6ヶ月と罰金15円という、当時としては重い刑が科せられました。荒畑ら当事者は後に、赤旗掲揚は軟派への示威行動であり、これほど重い罰を受けるとは考えていなかったと述べており、判決は彼らの予想を大きく裏切るものでした。

その後の影響

赤旗事件発生からわずか5日後の6月27日、西園寺首相は内務大臣の原敬らを訪ねて辞意を表明し、7月4日に第1次西園寺内閣は総辞職しました。総選挙での大勝直後という異例の事態であり、様々な憶測が飛び交いましたが、表向きの理由は西園寺の健康問題とされました。しかし、実際には元老である山縣有朋が、事件は西園寺内閣の社会主義に対する融和政策が招いた失策であると天皇に奏上したことが、退陣の直接的な原因になったと言われています。

事件発生時、幸徳秋水は故郷の高知県におり難を逃れましたが、事件を知るとただちに上京し、勢力の立て直しに奔走しました。この結果、社会主義運動の中で無政府主義者やそれに近い考えを持つ人々が主流派を占めるようになります。さらに、後継内閣である第2次桂内閣は社会運動への取り締まりを一層強化しました。これらの流れは、1910年（明治43年）に発生し、多数の社会主義者や無政府主義者が検挙・処刑されることになった「幸徳事件（大逆事件）」へとつながっていくことになります。赤旗事件は、明治期の社会主義運動が直面した厳しい弾圧の象徴であり、その後の運動の方向性に大きな影響を与えた出来事でした。

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