靖難の変

靖難の変は、明朝初期に燕王朱棣（後の永楽帝）が、甥である建文帝に対して起こした大規模な内乱です。1399年7月から1402年にかけて、華北地方を中心に激しい戦闘が繰り広げられ、明朝の歴史を大きく揺るがすことになりました。

事前の経緯

明朝を建国した洪武帝（朱元璋）は、元朝を北方に追いやり、南京を都と定めました。洪武帝は長男の朱標を皇太子とし、他の息子たちを各地の王として配置し、北元に対する備えとしました。その中で、北平（元の都、大都）に封じられたのが、洪武帝の四男である朱棣でした。朱棣は北元との戦いで功績を挙げ、父の洪武帝から高く評価されていました。しかし、洪武帝は有力な部下に裏切られることを恐れ、功臣たちを次々と粛清していきました。1392年、皇太子朱標が病死し、朱標の息子である朱允炆（後の建文帝）が皇太孫となりました。幼い孫が後継者となったことに不安を感じた洪武帝は、さらに粛清を加速させました。洪武帝は、朱棣を後継者とする考えもあったようですが、群臣の反対により断念したと伝えられています。

1398年、洪武帝が崩御し、朱允炆が建文帝として即位しました。建文帝は、即位前に太常寺卿の黄子澄に諸王への対処について相談し、黄子澄は諸王の軍は政府軍に敵わないという楽観論を唱えました。建文帝の側近である黄子澄、兵部尚書の斉泰らは、諸王の力を削ぐ「削藩」政策を進めました。その第一の標的は燕王朱棣でありましたが、まず朱棣の同母弟である周王朱橚を庶民に落とし、連座して斉王、岷王、代王、湘王も処分されました。南京政府は燕王への圧力を強め、開平に軍を駐屯させ、燕王の部下を引き抜き、さらに燕王府の長史をスパイとして取り込むなど、燕王を追い詰めていきました。建文帝は、燕王を南京に呼び出して捕えようとする動きもあったものの、これは実行されませんでした。燕王は狂ったふりをしてやり過ごそうとしましたが、これも見破られました。

靖難の変の勃発

追い詰められた燕王朱棣は、ついに南京政府に対して挙兵を決意しました。挙兵の会議の際、王宮の瓦が吹き飛ぶという不吉な出来事が起きましたが、朱棣の側近である道衍（姚広孝）が、「これは龍が天に昇る吉兆である」と述べ、周囲を勇気づけました。1399年7月、朱棣はわずか800の兵で決起しました。朱棣は政府軍の将軍を誘殺し、裏切り者を殺害し、北平城を制圧しました。朱棣は、建文帝に対する反乱ではなく、奸臣を討つことを目的としたとして、自軍を「奉天靖難軍」と名付けました。ここからこの戦争を靖難の役と呼ぶようになります。

北平を制圧した朱棣は、世子を北平に残し、次男と三男を連れて出撃し、周辺の要地を次々と占拠しました。一方、南京政府は耿炳文に30万の軍を率いさせましたが、建文帝の訓戒により兵士の士気が低下しました。耿炳文は朱棣軍に敗れ、建文帝は耿炳文を解任し、李景隆を後任としました。李景隆は無能であったため、朱棣はこれを喜びました。李景隆は50万の軍を率いて北平を包囲しましたが、朱棣軍に打ち破られて撤退しました。勢いに乗る朱棣は、再び建文帝に上書し、黄子澄と斉泰を非難しました。建文帝は両者を解任しましたが、朱棣の目標は黄子澄らの排除ではなく、皇帝の位にあったのです。1400年、李景隆が和議を申し入れましたが、朱棣はこれを拒否しました。その後、黄子澄と斉泰が一時的に復帰するも、方孝孺が総指揮を執ることになりました。

1400年、朱棣軍は李景隆軍を蔚州と大同で破りました。官軍は徐輝祖率いる援軍を得て白溝河で決戦に挑みましたが、朱棣軍に大敗しました。李景隆は南方に逃亡し、山東参政の鉄鉉が斉南城を死守しましたが、朱棣は北平に帰還しました。鉄鉉の追撃を受け、朱棣軍は大きな損害を出しました。李景隆は解任され、鉄鉉が兵部尚書に昇進し、盛庸が軍の指揮を執ることになりました。朱棣は兵を立て直し、1401年に盛庸と交戦して勝利しましたが、東昌の会戦で大敗を喫しました。しかし、朱棣は再び立ち直り、官軍を破り、和議を拒否しました。戦況は膠着状態となりましたが、朱棣は南京の守備が手薄になっていることを知り、南京への長駆を決定しました。

1402年、朱棣軍は南下を開始し、各地の官軍を破りながら南京へと迫りました。朱棣軍は、宿州で官軍を破り、霊璧で大勝しました。各地の守備軍は、朱棣の元に駆けつけました。黄子澄は「大勢は決した」と嘆きました。朱棣軍は揚州を制圧し、長江を渡り、鎮江を占領し、南京に迫りました。南京の守備軍は朱棣軍に敵わず、李景隆が自ら門を開いて降伏しました。最後まで抵抗したのは徐輝祖のみでした。建文帝は自ら宮殿に火を放って果てた（生存説もある）とされています。

事後

永楽帝（朱棣）は、黄子澄、斉泰、方孝孺ら50数名を「奸臣榜」に入れ、処刑しました。黄子澄と斉泰は一族もろとも殺害され、女性たちは妓女とされました。方孝孺は永楽帝の即位の詔を書くことを拒否し、「燕賊簒位」と書いたため、一族、門弟まで処刑されました。この粛清は「壬午殉難」と呼ばれ、多くが処刑されました。一方、永楽帝に忠誠を誓った者は登用され、李景隆、茹瑺らは重用されました。永楽帝は、簒奪の事実を糊塗するために建文帝の存在を歴史から抹殺しようとしました。建文帝の元号は取り消され、正統の皇帝としての資格を剥奪されました。建文帝が正統の皇帝として認められるまでには、長い年月を要することになりました。

その他の影響

明朝宗室の待遇の変化

永楽帝は、即位後に削られた藩王を回復させ、宗室の品級を上げる制度改定を行いました。しかし一方で、永楽帝は自らが武力で政権を奪取したため、政権の安定のため、辺境の王を内地へと移し、諸王の兵権を削減していきました。これにより、宗室と中央政権との軍事的な緊張関係は解消され、大量に増加した俸禄による財政圧力に変化していきました。

北京遷都と大寧割譲

永楽帝は、南京では建文帝の遺臣の影響力が大きかったため、政治的に判断し、自らの大本営であった北平を京師としました。また、モンゴルの軍事的脅威も無視できない問題でした。永楽帝は北平を北京と改め、遷都事業を進めました。1420年に北京皇宫と北京城が完成し、遷都が宣言されました。朱棣は靖難の初期に大寧衛の全軍を麾下に納めており、その功績から、大寧衛を朶顔三衛に与えました。大寧衛は軍事的に重要な拠点でしたが、その喪失は、後世からの否定的な評価に繋がりました。

内閣の設立、特務機関、宦官の重用

政務を効率的に処理するために、永楽帝は解縉と黄淮を文淵閣に入れました。これが内閣制度の始まりであり、明朝の政治において大きな役割を果たしました。また、永楽帝は洪武年間に廃止されていた錦衣衛を復活させ、特務機関の活動を再開しました。さらに、東廠を設立し、信頼している太監（宦官）を指揮者としました。靖難の変に際して、朱棣は宦官から多くの援助を受けていたため、太祖が定めた宦官の執政禁止を即位後に変更し、宦官を重用するようになりました。明代において、特務機関が優越しているのは大きな特徴です。宦官の重用は、明朝を衰退させる要因の一つとなりました。

地方経済への影響

靖難の変の戦乱は華北と華東の全域に広がり、淮河以北の経済に壊滅的な打撃を与えました。永楽帝は、戦場となった省の税を減免し、民力の回復に努めました。

文化

永楽帝は、建文帝に忠誠を誓った大臣を誅殺した他、建文帝およびそれに殉じた臣下の著作を焼却しました。

評価

明軍が燕軍に敗れた理由として、洪武帝時代の粛清で有能な将軍が少なかったこと、燕王側には有能な武将や軍師が揃っていたこと、建文帝の温和な性格や永楽帝の軍事的資質などが挙げられます。

靖難の変は、明朝の歴史において非常に重要な出来事であり、その後の明朝の政治、社会、文化に大きな影響を与えました。

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