エジプト先王朝時代

エジプト先王朝時代：王朝誕生への道筋

エジプト先王朝時代は、統一王朝が成立する以前の古代エジプトの歴史を指します。紀元前50万年前には既に人類の痕跡が見られますが、歴史学的な観点からは、先王朝時代の開始時期は明確にされていません。一般的には、考古学的な観点から農耕の開始をその始まりとする見解が主流です。本稿では、エジプトにおける農耕・牧畜の始まりから、初期王朝時代（第1王朝）の成立までを概観します。ただし、先王朝時代の定義、特に開始時期については、学説が統一されていない点を留意する必要があります。

自然環境と終末期旧石器文化

現在のエジプト西部砂漠は、紀元前12,000年から紀元前7,000年頃にかけて、第4湿潤期と呼ばれる湿潤な時代を迎えていました。年間降水量は200mm程度と推定されますが、スーダン北部からエジプト南部にかけて植物が繁茂し、ノウサギやガゼルなどの動物が生息していました。考古学的には、この時代は「終末期旧石器時代」または「続旧石器時代」に分類され、人類の居住痕跡が砂漠地帯からも発見されています。地下水のある低地などに居住が集中していたと見られます。ナブタ・プラヤ遺跡周辺からは、ノウサギ、ガゼル、ダチョウの卵、アカシアなどの植物遺存体が見つかり、当時の生物多様性を示しています。ナイル川中流域（現在のスーダン中部）では、カルトゥーム中石器文化が栄え、最古の土器や定住生活の痕跡が見つかっています。紀元前7,000年頃からの乾燥化に伴い、人類の活動はナイル川流域を中心に行われるようになりました。

農耕・牧畜の始まり

初期の発掘調査では、ナイル川流域における農耕・牧畜は紀元前6千年紀後半に突如始まったと推測されていましたが、20世紀後半の調査で、西部砂漠地帯にその起源を示唆する遺跡が多数発見されました。現在では、砂漠化以前の西部砂漠地方に農耕・牧畜文化の起源を持つ可能性が示唆されています。しかし、西部砂漠地方とナイル川流域の関係は、まだ解明されていません。

ウェンドルフらの研究によると、紀元前7,000年頃にはウシの家畜化が独自に始まった可能性が示唆されています。ヒツジとヤギについては西アジア起源であることが明らかです。エジプトでは紀元前6,000年後半に導入されました。農耕に関しては、紀元前5,000年頃のファイユームにおける麦の栽培が最古の例とされていますが、紀元前6,000年頃にはソルガムやミレットが西部砂漠地方で栽培されていた可能性も示唆されています。

各地域の初期農耕文化

古代エジプト人は、ナイル川を基準に上エジプト（タ・シェマ、南）と下エジプト（タ・メフ、北）の二つの地域に区分していました。ナイル川の流路やデルタ地帯の広がりなど、自然環境の違いから、それぞれの地域で独自の文化が発展しました。

ファイユーム

ファイユーム低地は、ナイル川の分流とカルーン湖を中心とする湿地帯であり、古くから人類が居住していました。ファイユーム文化は、紀元前5230年頃から1000年以上にわたって続いた、エジプト最古の確実な農耕文化です。麦の栽培やヒツジ・ヤギの飼育、漁労・狩猟が行われていました。この文化と終末期旧石器時代の文化の間には1000年以上の空白があり、外部から農耕・牧畜技術が導入されたという説もあります。

下エジプト

下エジプトでは、メリムデ文化、オマリ文化、マーディ・ブト文化などが栄えました。メリムデ文化はシリア地方との交流を示す遺跡であり、エンマーコムギ、大麦、豆類などを栽培していました。オマリ文化は、穀物栽培が補助的な役割に留まっていた可能性が示唆されています。マーディ・ブト文化は、ロバ、ウシ、ヒツジなどを飼育しており、狩猟よりも農耕・牧畜が重視されるようになりました。銅製品加工も行われており、周辺地域との交流が盛んであったことがわかります。

上エジプト

上エジプトでは、ターリフ文化、バダリ文化、ナカダ文化が発展しました。ターリフ文化は移動生活を送っていたと推測され、農耕の痕跡は確認されていませんが、家畜化されたウシの骨が見つかっています。バダリ文化は、集団墓地と豊富な副葬品が特徴であり、階層分化が見られます。エンマー小麦や大麦の栽培、ウシ・ヒツジ・ヤギの飼育、狩猟などが行われていました。ナカダ文化は、上エジプト南部で発祥し、農耕・牧畜がより重視されました。特徴的な遺物としてパレット（化粧板）があり、その発展過程から古代エジプト史の流れを読み解くことができます。ナカダ文化はエジプト全土に広がり、エジプト統一の礎となりました。

ナカダ文化の編年と社会階層

ナカダ文化は、ピートリーによってアムラー期、ゲルゼ期、セマイナー期に分類されましたが、現在はナカダ1期、ナカダ2期、ナカダ3期に再分類されています。ナカダ2期前半までは墓の規模に格差が生じ、社会階層の分化が進みますが、ナカダ3期に入ると、多くの集落で社会階層の格差は縮小し、中心的な集落では大型の墓が造られるようになります。

大型集落（都市）

ヒエラコンポリス、ナカダ、アビュドスなどは、政治・経済の中心として機能する大型集落として発達しました。エジプトではメソポタミアのような独立した都市国家は成立しませんでしたが、ナカダ期には都市規模に匹敵する集落が形成されました。

周辺地域との関係

ナカダ文化は、ヌビア、パレスチナ、メソポタミアなど周辺地域と交流がありました。ヌビアとは、ナカダ文化の製品が大量に輸出され、経済的関係が強まりました。パレスチナからは波状把手付土器が輸入され、エジプトの土器文化にも影響を与えました。メソポタミアからはラピスラズリなど輸入され、文化交流もあったと見られます。

王権の成立

上エジプトを中心に「王国」が成立し、その支配者たちは象牙製品、パレット、棍棒などを威信財として用いました。これらの遺物は、後世のエジプト王権のシンボルとなりました。ヒエラコンポリス100号墓からは、王権に関連する図像が多数発見されています。

文字の出現と統一過程

ナカダ3期には文字（絵文字）が登場し、複数の王名が確認されています。上エジプトの勢力がエジプト統一の中心であったという見解が一般的ですが、具体的な統一過程については、複数の学説が存在します。カイザーはナカダ文化の拡大を政治的統合過程と見なし、ケンプは3段階の統合過程、ウィルキンソンは5つの政体の統合過程を仮説として提示しています。また、『カイロ年代記』には第1王朝以前の王が描かれており、統一時期を第1王朝以前とする説もあります。

統一と初期王朝時代

一般的に、ナルメルがエジプトを統一し、紀元前3150年頃～紀元前3050年頃をエジプト初期王朝時代と呼び、ナルメルを第1王朝の初代王とします。

研究史

古代エジプト人も王朝の起源に関心を持ち、王名表などが作成されました。『パレルモ石』や『カイロ年代記』には、統一王朝以前の王らしき人物が記されています。ギリシアの歴史家ヘロドトスやマネトも、初代王について記述しています。

19世紀後半以降、考古学的発見が相次ぎ、ナカダ文化が発見され、先王朝時代が研究分野として確立されました。初期の研究では、民族侵入説が提唱されましたが、20世紀後半以降、プロセス考古学や放射性炭素年代測定法の発展により、エジプト内部要因に注目する研究が主流となっています。下エジプトの調査が進み、周辺地域との交流も解明されてきています。現在もエジプト先王朝時代に関する研究は進展しています。

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