ディートリヒ・フィッシャー＝ディースカウ

ディートリヒ・フィッシャー＝ディースカウ：20世紀を代表する声楽家

ディートリヒ・フィッシャー＝ディースカウ（Dietrich Fischer-Dieskau, 1925年5月28日 - 2012年5月18日）は、ドイツの声楽家（バリトン）、オペラ歌手、指揮者、音楽教育者、画家、著述家、朗読家として、20世紀の音楽界に多大な足跡を残しました。

彼の歌唱は、シューベルトの『冬の旅』をはじめとする歌曲において、半世紀以上経った今もなお、比類なき名演として絶賛されています。400枚を超えるレコード録音は、他の追随を許さず、その幅広いレパートリーは、オペラ、歌曲、オラトリオと多岐にわたり、ドイツ語、イタリア語、英語だけでなく、フランス語、ロシア語、ヘブライ語などでも録音を行いました。

「20世紀最高の声楽家の一人」「20世紀で最も影響力のある歌手」と評され、フランスでは「ル・ミラクル・フィッシャー＝ディースカウ」、エリーザベト・シュヴァルツコップからは「すべてを兼ね備えた生まれながらの神」と称えられました。30年以上にわたり、オペラとコンサートの両分野で第一線で活躍しました。

若年期と音楽への目覚め

1925年、ベルリン近郊のツェーレンドルフで生まれたフィッシャー＝ディースカウは、牧師で賛美歌学者の祖父、古典派学者の父、音楽教師の母という音楽的な環境で育ちました。内気で内向的な性格でしたが、身体的・精神的なハンディキャップを持つ兄を楽しませるために、幼少期から人形劇を演じ、歌唱を始めました。16歳から本格的な声楽レッスンを受け、ベルリン音楽院でヘルマン・ヴァイセンボルンに師事しました。

1943年、空襲下のツェーレンドルフで初舞台を踏むも、直後にドイツ国防軍に召集され、ロシア戦線へ。戦場で馬の世話をする日々の中で、「朝の星の詩」という日記をつけ、精神を保ちました。また、障碍を持つ兄の死、実家の破壊を知り、失意の中、1944年-1945年の冬はイタリア戦線へ。戦線後方の兵士たちの慰問で歌を披露するも、終戦直前に連合軍の捕虜となり、収容所生活を送りました。この間も独学で声楽の研究を続け、収容所内でコンサートを行いました。1947年、帰国。

歌手としての輝かしいキャリア

1947年にベルリン音楽院に復学後、バーデンヴァイラーでプロ歌手としてのキャリアをスタート。ヨハネス・ブラームスの『ドイツ・レクイエム』の代役として、リハーサルなしで歌い、その才能を世に知らしめました。同年秋にはライプツィヒで最初の歌曲リサイタル、ベルリンのティタニア・パラストでの演奏会を成功させました。

1948年1月、RIAS（アメリカ軍占領地区放送局）でシューベルト歌曲集『冬の旅』を歌い、本格的なキャリアが始まりました。同年秋にはベルリン市立歌劇場（現：ベルリン・ドイツ・オペラ）の首席リリックバリトン歌手に就任。フェレンツ・フリッチャイ指揮でヴェルディの『ドン・カルロ』ポーザ公爵を歌い、オペラデビューを飾りました。以後、ワーグナーの『タンホイザー』ヴォルフラムなど多くの役で活躍し、1978年まで同歌劇場を拠点としました。

1949年、初のレコード録音でブラームスの『4つの厳粛な歌』を歌い、以後、ウィーンやミュンヘンの歌劇場にも客演。1951年にはザルツブルク音楽祭でフルトヴェングラーと共演し、マーラーの『さすらう若者の歌』を歌いました。同年にはロンドンでのブリテン・フェスティバル、エディンバラ音楽祭にもデビュー。1954年にはバイロイト音楽祭に『タンホイザー』ヴォルフラム役で初出演、1961年まで常連出演者となりました。ザルツブルク音楽祭でも1956年から1970年代にかけて活躍しました。

オペラ歌手としては、ベルリン、ミュンヘン、ウィーン、ロンドン、ハンブルク、日本など、世界各地の歌劇場に出演。エリーザベト・シュヴァルツコップ、イルムガルト・ゼーフリート、プロデューサーのウォルター・レッグと協力し、シューベルトやヴォルフの歌曲アルバムを制作しました。

1951年、ジェラルド・ムーアのピアノ伴奏でシューベルトの歌曲集『美しき水車小屋の娘』の全曲を録音。1967年にムーアが引退するまで、数々の演奏会や録音を共に行い、シューベルトの歌曲全集録音などの偉業を成し遂げました。他にもヴォルフガング・サヴァリッシュをはじめ、クラウス・ビリング、ヘルマン・ロイターなど多数のピアニストと共演。スタジオ録音だけでも8回行った『冬の旅』をはじめ、数多くのリサイタル、録音を行い、20世紀最大のドイツリート歌手としての地位を確立しました。

20世紀前半の声楽発音の常識であった舞台ドイツ語に口語発音を取り入れ、現代化させました。また、同年代の歌手と異なり、地方歌劇場での下積み期間がほとんどなかったため、オペレッタはあまり歌いませんでしたが、それでもヨハン・シュトラウス2世の『こうもり』『ジプシー男爵』の録音を残しています。

1955年、29歳で初のアメリカ演奏旅行を行い、ニューヨークでのデビューでは、シューベルトの歌曲集『冬の旅』を休憩なしで歌い上げました。彼のレパートリーは、フランス歌曲やアメリカ歌曲にも広がり、約100人の作曲家による約3,000曲に及んでいました。現代音楽にも積極的に取り組み、1962年にはベンジャミン・ブリテンの『戦争レクイエム』の初演に参加しました。さらに、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ、カール・アマデウス・ハルトマンなどの現代作曲家の作品を歌い、ゴットフリード・フォン・アイネムのカンタータ『後に生まれる人のために』の初演と録音にも参加しました。

宗教音楽、特にJ.S.バッハの作品も主要なレパートリーとし、EMIやアルヒーフに残した録音は、古楽器が流行した現在でも色あせることがありません。イタリアオペラにも挑戦し、ヴェルディの『リゴレット』や『ドン・カルロ』の録音は特に高い評価を受けています。

歌手活動からの引退とその後

1978年にオペラから引退しましたが、歌曲やコンサートの歌手としては1992年まで歌い続けました。1970年代からは指揮者としての活動も開始。1983年からはベルリン音楽院教授としてリートのマスタークラスを持ち、トーマス・クヴァストホフ、アンドレアス・シュミット、マティアス・ゲルネなど、数多くのリート歌手を育てました。1992年12月31日、ミュンヘンでの大晦日ガラで歌手活動に終止符を打ちました。

引退後は、教育、指揮、絵画活動、詩の朗読、書籍の執筆に専念しました。1994年にはラインガウ音楽祭でリヒャルト・シュトラウスからフーゴ・フォン・ホフマンスタールへの手紙を朗読。また、シューマン協会の名誉会員にもなりました。

2012年5月18日、86歳で死去。訃報はフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイツング紙の一面で報じられ、ベルリン州の名誉の墓に埋葬されました。彼の死は、日本のメディアでも「百年に一人の大歌手」として報じられました。

日本との関わり

フィッシャー＝ディースカウは、生涯で11回日本を訪れ、オペラ、コンサート、歌曲リサイタルなど、多岐にわたる活動を行いました。特に、ヴォルフガング・サヴァリッシュとの共演は、日本の音楽ファンに大きな感動を与えました。1997年にはNHK教育テレビの番組で講師を務め、シューベルトの歌曲を紹介しました。

音楽性と評価

彼の音楽性とテクニックは、常に「完璧」と評され、その正確な演奏は、歌曲の基準を確立しました。シューベルトの歌曲歌手として最も賞賛され、評論家ヨアヒム・カイザーは「唯一の真のライバルは彼自身」と評しました。トーマス・ハンプソンは、彼を「現代の録音時代を切り開き、録音の可能性を追求し、クラシック音楽を振興した」と称賛しました。畑中良輔は、「フィッシャー＝ディースカウに憧れなかった者はいない」という追悼文を執筆。ルネ・コロは「彼の声はリートのために運命づけられた」と称えました。

私生活

フィッシャー＝ディースカウは、4度の結婚を経験しており、最初の妻イルムガルト・ポッペンとの間に3人の息子がいます。1977年以降は、ソプラノ歌手のユリア・ヴァラディと結婚生活を送りました。兄のクラウスは合唱[[指揮者]]として活躍し、ディートリヒの指揮も務めました。

受賞歴

ドイツ連邦共和国功労勲章、レオニー・ソニング音楽賞、エルンスト・フォン・ジーメンス音楽賞、高松宮殿下記念世界文化賞、ポーラー音楽賞など、数々の賞を受賞。グラミー賞も5回受賞しています。

ディスコグラフィー

彼の残した膨大な録音は、バッハから現代音楽まで多岐にわたり、その歌唱は、今日でも多くの音楽ファンを魅了し続けています。

著書

『自伝 フィッシャー=ディースカウ－追憶』をはじめ、『シューマンの歌曲をたどって』『ワーグナーとニーチェ』『シューベルトの歌曲をたどって』など、音楽に関する著書も多数出版しています。

ディートリヒ・フィッシャー＝ディースカウは、その卓越した音楽性と多岐にわたる活動を通じて、20世紀の音楽界に偉大な足跡を残しました。彼の音楽は、これからも多くの人々に感動を与え続けることでしょう。

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