千円札裁判

千円札裁判とは

千円札裁判は、前衛芸術家である赤瀬川原平が、1963年に制作した千円札を模した作品をめぐり、1965年から1967年にかけて行われた裁判です。この裁判は、芸術表現の自由と社会規範の境界線を問い、当時の社会に大きな波紋を広げました。

事件の経緯

赤瀬川は、「オブジェとしての紙幣」に関心を持ち、千円札を片面のみ一色で印刷するというアイデアを思いつきました。彼は複数の印刷所に依頼しましたが、いずれも断られたため、まず製版を依頼し、その後、別の印刷所で印刷を行いました。

1963年1月、これらの印刷物を加工し、作品として発表しました。さらに、同年2月の個展「あいまいな海について」の案内状には、千円札の裏面に個展の案内を印刷したものが使用され、関係者に現金書留で送付されました。

赤瀬川はまた、千円札を詳細に観察し、原寸の200倍に拡大模写した作品「復讐の形態学」を制作し、1963年3月の読売アンデパンダン展で発表しました。

その他にも、印刷された千円札を板に貼り付けた作品や、梱包材として使用した作品、切り取り線をつけた作品など、様々なバリエーションの作品を発表しました。テレビ番組に出演した際には、印刷された千円札を灰皿で焼くパフォーマンスも行いました。

捜査と裁判

赤瀬川の印刷千円札が警察の捜査対象となったのは、1963年8月に刊行された書籍『赤い風船あるいは牝狼の夜』が猥褻図書の疑いで押収されたことがきっかけでした。その書籍には赤瀬川の作品「千円札の聖徳太子の拡大写真」が掲載されており、その後の捜査で「赤瀬川の印刷千円札」が発見されたのです。

1964年1月8日、赤瀬川は「チ-37号事件」と呼ばれる偽札事件の容疑者として警察の取り調べを受けました。しかし、当初は不起訴となる見込みでした。しかし、1964年1月27日、朝日新聞に「前衛芸術家、赤瀬川原平」が「チ37号事件」の悪質な容疑者であると報道されました。

1965年11月、検察は赤瀬川と印刷所の社長2名を通貨及証券模造取締法違反で起訴しました。検察は赤瀬川を「思想的変質者」とみなしていました。

赤瀬川は、弁護人に杉本正純を依頼。また、瀧口修造をはじめとする美術界の重鎮が弁護人や証人として名を連ねました。赤瀬川は、自身の作品を「千円札のニセモノ」ではなく「千円札の模型」だと主張しました。また、検察が主張した印刷所社長との共謀も否定しました。

裁判では、赤瀬川の作品が芸術であるかどうかが争われ、高松次郎や中西夏之らが法廷で「ハイレッド・センター」の活動について説明するなど、前衛芸術の状況が証言されました。裁判所内には、他の前衛芸術作品も多数展示され、まるで美術館のようになりました。

裁判では、紙幣に類似する物を多数収集し、法廷で提示されました。さらに赤瀬川は、千円札を少しずつ露出を変えながら撮影した一覧表を「紛らわしさ検査表」として提出し、どこからが問題なのかを検察に問いただしましたが、明確な回答は得られませんでした。

1967年6月、東京地裁は「言論・表現の自由は無制限ではない」とし、赤瀬川に懲役3月、執行猶予1年、原銅版没収の判決を下しました。印刷所の社長2名も有罪となりました。赤瀬川にとって、原銅版没収は大きなショックでした。

裁判後、赤瀬川は証人として協力した人々に感謝の気持ちを伝えようと、父親に礼状を書いてもらい、「木の葉のお札」を同封して、各家庭の郵便受けに配布しました。

赤瀬川は判決を不服として控訴しましたが、東京高裁、最高裁でいずれも棄却され、有罪が確定しました。裁判中には、「大日本零円札（本物）」などの作品を制作しています。

千円札裁判懇談会

1965年には、現代思潮社の川仁宏が事務局長となり、「千円札裁判懇談会」が結成されました。瀧口修造、中原佑介、針生一郎らが会員として参加しました。

弁護人・証人

特別弁護人として、瀧口修造、中原佑介、針生一郎が参加し、中原佑介、中西夏之、高松次郎、針生一郎、刀根康尚、篠原有司男、山本孝、愛甲健児、福沢一郎、鈴木慶則、大島辰雄、粟津潔、澁澤龍彦、池田竜雄、中村宏、秋山邦晴、山田宗睦、川仁宏が弁護側証人として出廷しました。

都市伝説化

この裁判について、赤瀬川自身が詳細に記述した著書『オブジェを持った無産者』は長く絶版だったため、この事件は都市伝説化していました。事件に関する誤解として、赤瀬川が千円札の模写をしたため逮捕された、ニセ札製造犯人として逮捕された、などがあります。実際には印刷作品が問題となり、赤瀬川が制作したのは片面一色の印刷であり、ニセ札ではなかった事が捜査段階で判明しています。

第二次千円札事件

1973年には、赤瀬川が雑誌『美術手帖』で千円札を紙面に印刷し、読者がそれを実際に使用したため、警察に出頭する騒ぎとなりました。この事件は書類送検されたものの、不起訴となりました。

その他

赤瀬川は、1979年に尾辻克彦名義で中央公論新人賞を受賞した際、審査員に印刷した千円札を贈りました。また、西尾維新原作のアニメ作品でも、度々「赤瀬川」と書かれた紙幣が登場します。

参考文献

赤瀬川原平『オブジェを持った無産者』現代思潮社、1970年（河出書房新社から2015年に再刊）
赤瀬川原平『東京ミキサー計画―ハイレッド・センター直接行動の記録』Parco出版局、1984年（ちくま文庫で再刊）
『赤瀬川原平の冒険』紀伊国屋書店、1995年
赤瀬川原平『全面自供!』晶文社、2001年
熊谷真美『赤瀬川原平資料集 千円札裁判の記録』ナゴミ書房 1998年
『ネオ・ダダJAPAN 1958-1998 磯崎新とホワイトハウスの面々』大分市教育委員会　1998年

この裁判は、芸術表現の自由と社会規範の衝突を示す重要な事例として、美術史にその名を刻んでいます。

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