桜井哲夫 (詩人)

詩人・小説家 桜井哲夫

桜井 哲夫（さくらい てつお）は、1924年（大正13年）に青森県で生まれ、2011年（平成23年）に87歳で亡くなった日本の詩人、小説家です。本名を長峰 利造（ながみね としぞう）といい、ハンセン病からの回復者として知られ、「日本で最後のらい詩人」や「らい文学の最後を告げる詩人の一人」とも称されました。

苦難に満ちた生涯

桜井の人生は13歳でのハンセン病発病により一変します。当時の治療薬である大風子油は効果がなく、17歳を迎える1941年（昭和16年）には、群馬県にある国立療養所栗生楽泉園への入所を余儀なくされました。当時は有効な治療法が確立されておらず、またハンセン病に対する誤解から来る恐ろしい差別により、入所は事実上の隔離を意味しました。政府の政策により、桜井は本名を隠して「桜井哲夫」という偽名を名乗ることを強いられ、出自を明かす自由すら奪われました。

学生生活を絶たれて療養所に入った桜井でしたが、学ぶことへの強い情熱を持ち続けました。園内で短歌会に参加して文学に触れ、仏教哲学や西洋哲学にも深く傾倒し、成唯識論、阿毘達磨倶舎論をはじめ、鈴木大拙や西田幾多郎の著作などを読み漁りました。しかし、短歌会は戦時下の影響で中止されてしまいます。

戦後、1946年（昭和21年）には園内で結婚しますが、当時の結婚条件は子孫を残さないための断種手術でした。この手術が不完全だったため妻が妊娠し、人工妊娠中絶を強いられた結果、生まれた娘はその夜のうちに亡くなるという悲劇に見舞われます。さらに1953年（昭和28年）には妻も白血病で亡くし、深い喪失感を抱えることになります。

戦後に導入されたハンセン病の特効薬プロミンは、希望であると同時に新たな苦痛をもたらしました。治療初期の過剰投与の副作用により、桜井は1954年（昭和29年）に失明。化膿した眼球は摘出され、声帯も侵され声が出にくくなり、両手の指も失いました。さらに滅菌のために顔面を焼きごてで焼かれ、ケロイド状の痕が残り、口角は裂け、鼻も崩れて鼻孔を残すのみとなりました。これらの後遺症は、療養所の回復者の中でも特に重篤なものであり、初めて会う人々がその姿に衝撃を受けるほどでした。

詩作活動と社会との関わり

失明から約30年後の1983年（昭和58年）、栗生楽泉園の園長に勧められたことを機に、桜井は詩作を始めます。園内の詩人団体である栗生詩話会に入会し、失明前の記憶、特に故郷津軽の風景などを頼りに詩を創作しました。詩作への没頭はさらに文学や思想への探求心を深めさせ、神学を学び聖書を読み込む中で、国際らい学会事務局長スタンレー・G・ブラウンから大きな影響を受けました。1985年（昭和60年）にはカトリックの洗礼を受けますが、形式にとらわれず、口語体の詩の韻を学ぶためといった独自の動機を持っていました。

1988年（昭和63年）、亡き娘への思いを込めた初の詩集『津軽の子守唄』を刊行。その後も『ぎんよう』『無窮花抄』などの詩集を発表します。重い視覚・触覚障害のため自身で文字を書くことはできず、頭の中で練り上げた詩を他者に代筆してもらうという方法で創作を続けました。

詩集の収益は、貯蓄していた年金と合わせてタイのハンセン病コロニーの貯水池建設に寄付するなど、国内外のハンセン病患者支援や社会貢献活動にも積極的に取り組みました。アフガニスタン支援や難民支援教会への献金なども行っています。

1995年（平成7年）には、在日韓国人3世の女学生、金正美と出会い、祖父と孫のような深い交流が始まりました。声が出にくい桜井の代わりに声を出したり、外出時に身の回りの世話をしたりと、金の献身的なサポートは桜井の行動範囲を大きく広げました。この交流は後に、NHKドキュメンタリーやラジオ番組でも取り上げられています。1996年（平成8年）には唯一の自伝小説『盲目の王将物語』を刊行しました。

金のサポートを得て、海外への旅も実現しました。1999年（平成11年）にはタイのハンセン病コロニーに招待され、その体験をもとに詩集『タイの蝶々』を刊行。2001年（平成13年）には、亡き妻の父が建設に関わった水豊ダムに沈んだ多くの韓国人労働者への謝罪のため、韓国を訪問しました。現地ではハンセン病の定着村を訪ねて謝罪を繰り返し、大学での講義では学生たちの涙を誘いました。帰国後、病床で韓国・朝鮮への贖罪の思いを綴った詩集『鵲の家』を書き下ろしています。

同年、らい予防法違憲国家賠償訴訟の証言台に立ち、亡き娘の中絶の経験を語りました。この裁判での国の謝罪が契機となり、2001年10月には60年ぶりに故郷青森への帰還を果たしました。故郷への思いを込めた詩集『津軽の声が聞こえる』は、2005年（平成17年）に英訳され、ハンセン病への偏見根絶を世界に訴えるとともに、ローマ教皇ベネディクト16世に献呈され、2007年（平成19年）にはバチカンで謁見の機会を得るに至ります。

2008年（平成20年）には、親族の勧めもあり、本名の長峰利造名義で最後の詩集『鶴田橋賛歌』を刊行しました。

評価と遺したもの

桜井の作品と人間性は、交流のあった多くの人々に影響を与えました。詩人の斎田朋雄は、その詩を「表現技法を超える、たくましく明るい力」「らい文学の暗さの微塵もない、広角度の詩的視点」と評価し、その人間像を「闘病苦、望郷への思いを超えるヒューマニズム」と評しました。また、森田進は、失明ゆえの創作方法から生まれる「少年時代の津軽のリズム」や「口承文芸的な意味の多層性」を見出しました。小説『盲目の王将物語』は、加賀乙彦により、悲惨な内容にもかかわらず「軽やかなユーモアと詩情」を漂わせる「詩人の小説の趣き」と称賛されています。

桜井の生涯と活動は、多くのメディアで紹介されました。NHKのドキュメンタリー番組「津軽・故郷の光の中へ」は高い評価を得て、彼の60年ぶりの帰郷を広く伝えました。また、青森放送のラジオ番組では、金正美との交流が長きにわたり放送されました。鉛筆画家の木下晋は、桜井の肖像画を描き、その壮絶な人生を乗り越えた存在感を表現しました。韓国人写真家の権徹は、晩年の桜井を撮影し、写真集『てっちゃん ハンセン病に感謝した詩人』として刊行。桜井自身、「オレたちが死んだら、この国から、らいは消えてなくなってしまう。きっと貴重な記録になる」と語り、自身の姿を残すことの意義を理解していました。

2011年（平成23年）、肺炎のため栗生楽泉園で死去。没後、宗派を超えた追悼ミサが行われ、故郷の墓には本名の長峰利造として納骨されました。

桜井哲夫は、ハンセン病による筆舌に尽くしがたい苦しみと差別の壁に直面しながらも、文学への情熱と人間への深い愛情、社会への貢献を忘れず生きた人物です。その詩と生涯は、逆境の中にあっても失われない人間の尊厳と、困難な歴史の中で声なき人々の思いを伝える貴重な遺産として、今も私たちに語りかけています。

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