殷浩

殷浩（いん こう）

殷浩（いん こう、生年不詳 - 356年）は、東晋時代の政治家、軍人として知られています。字は深源（しんげん）。「竹馬の友」の故事で知られ、幼少の頃から桓温と並び称される存在でした。

生涯

陳郡長平県（現在の河南省周口市商水県一帯）を本籍とし、父は豫章郡太守を務めた殷羨（いん せん）です。従子には、東晋の武将である殷仲堪（いん ちゅうかん）がいます。

隠遁生活から政界へ

若い頃から深い見識と広い度量を持ち、清談（知識人による哲学的な談義）において名声を博しました。叔父の殷融（いん ゆう）と共に『老子』や『易経』を好み、弁舌においては殷融を凌駕したと伝えられています。

太尉、司徒、司空といった高位の官職への招聘を幾度も辞退し、隠遁生活を送りました。庾亮（ゆ りょう）に才能を認められ、記室参軍に任じられますが、その後も安西司馬への要請を病を理由に辞退し、再び隠棲します。

当時の人々は、殷浩の隠遁生活を管仲や諸葛亮になぞらえ、その才能を高く評価しました。しかし、庾翼は彼を「高閣に束ねておくべき人物」と評し、過大評価を戒めました。王濛や謝尚は、殷浩の仕官の意思を探るため訪問しましたが、彼の固い決意を知り、落胆したと言われています。

政権の中枢へ

庾冰、何充らの死後、会稽王司馬昱（後の簡文帝）が宰相として政務を司るようになると、褚裒（ちょ ほう）の推薦により、殷浩は司馬昱に重用されるようになります。

永和2年（346年）、建武将軍・揚州刺史に任じられ、幾度かの辞退を経てついに仕官し、朝政に参画することとなりました。

桓温との対立

安西将軍桓温（かん おん）が成漢征伐の功績により声望を高めると、朝廷は桓温を警戒し、殷浩を側近として重用することで牽制しようとしました。これが、殷浩と桓温の対立を招くことになります。

殷浩は父の喪に服した後、再び建武将軍・揚州刺史に復帰し、荀羨（じゅん せん）や王羲之（おう ぎし）を側近として登用しました。王羲之は殷浩と荀羨に桓温との協調を勧めましたが、殷浩はこれを聞き入れませんでした。

北伐の失敗と失脚

永和5年（349年）、後趙の内乱を好機と見た東晋朝廷は、殷浩を北府軍団の長として北伐を命じます。殷浩は中原奪還を自らの責務と捉えましたが、桓温もまた北伐を望んでおり、朝廷に軍の動員を請いました。しかし、殷浩らは桓温の出征に反対し、両者の対立は一層深まります。

殷浩は北伐を敢行しますが、羌族の姚襄（よう じょう）の離反や、前秦との戦いに敗れるなど、度重なる失敗を重ねます。永和10年（354年）、桓温は殷浩の罷免を上奏し、殷浩は官爵を剥奪され、庶人に落とされてしまいます。

失意のうちに死去

失脚後も、殷浩は恨み言を口にせず、平然とした態度を崩しませんでした。しかし、常に空に向かって「咄咄怪事（とつとつかいじ）」と書き続けていたと言われています。

その後、桓温は殷浩を尚書令に任じようと考えましたが、殷浩が返書を出す際に手紙を入れ忘れるという失態を犯し、桓温の怒りを買って復帰の機会を失います。

永和12年（356年）、信安県で失意のうちに死去しました。後に、顧悦（こ えつ）の進言により、生前の官位を追贈されています。

逸話

官位や財産に関する夢占いの逸話が残されています。
桓温との関係について、「我は我自身とのつきあいが長い」と答えた逸話は、殷浩の自負を示すものとして知られています。
桓温は殷浩の失脚後、幼少の頃の竹馬遊びに例え、優位性を示そうとしました。
信安県に移る際、甥の韓伯との別れを惜しむ逸話も残されています。

殷浩は、その才能と人望から東晋の政局に大きな影響を与えましたが、桓温との対立や北伐の失敗により、不遇な晩年を送りました。

もう一度検索