相州炮術調練場

相州炮術調練場（そうしゅうほうじゅつちょうれんじょう）は、江戸時代に相模国の海岸沿い、現在の神奈川県藤沢市および茅ヶ崎市にあたる地域に存在した、江戸幕府の鉄砲方役人のための大規模な銃術・砲術訓練施設です。

歴史的背景と開設

この海岸一帯は、1590年（天正18年）には既に幕府領となっており、当時は藤沢宿の代官によって管理されていました。18世紀に入り、幕府は享保の改革を推進する中で、武術、特に銃砲術の強化を図りました。その一環として、幕府鉄砲方の井上左太夫貞高は、鉄砲方役人の射撃技能を向上させる目的で、1728年（享保13年）にこの地に広大な調練場を設置することを計画しました。調練場の範囲は、相模川河口に位置する柳島村から、東は片瀬村に至るまでの長い海岸線に及びました。

運営と周辺村の負担

調練場の運営には、幕府鉄砲方の役人や、地元の代官所である江川太郎左衛門家が関わりました。また、訓練期間中には、周辺の村々の名主などから選ばれた鉄砲場見廻役が任命され、訓練区域の安全確保などに重要な役割を果たしました。彼らはその役目の重さから、苗字帯刀を許されていました。

しかし、相州炮術調練場の存在は、周辺地域の村々、特に三浦郡、鎌倉郡、高座郡に属する村々にとって、経済的および人的な大きな負担となりました。訓練期間中、これらの村々には多岐にわたる夫役（ぶやく）が課せられたのです。これには、遠方から派遣される幕府役人のための宿泊施設の提供や食事の準備、訓練に不可欠な土木作業などの力仕事、訓練区域への立ち入りを禁止するための警備、そして物資や人員を輸送するための伝馬（てんま）などが含まれていました。当時の村々は、既に戸塚宿、藤沢宿、平塚宿といった主要宿場への助郷（すけごう：人馬を提供する負担）にも苦しんでおり、それに加えて炮術調練場から課される賦役は、村々の生活をさらに圧迫する要因となっていました。

演習の内容と実態

相州炮術調練場での訓練は、年間を通じて常に実施されていたわけではなく、主に春から夏にかけて集中的に行われました。開設当初の約20年間は毎年実施されていましたが、その後は隔年での実施が定着し、1775年以降は最低でも隔年で実施される体制となりました。演習はいくつかの組に分かれて行われ、各組が16日から25日間ほどの訓練に臨みました。全体としては4月上旬から7月中旬にかけて断続的に実施され、江戸から参加する役人は往復の移動を含め約20日から1ヶ月程度の出張となりました。天候に左右されるため、雨天や強風の場合は訓練が順延され、秋までずれ込むこともありました。

訓練内容は非常に実践的で、様々な状況を想定した射撃訓練が行われました。主な訓練内容には、遠距離射撃の「町打（ちょううち）」、近距離射撃の「角打」、船上からの射撃である「船打」、そして高所から下方へ向かって射撃する「下ケ矢」などがありました。それぞれの訓練には、海岸線の地形を利用した特定の訓練区域が定められていました。「町打」は遠距離を狙う訓練で、辻堂海岸に設けられた発射場から柳島村方面の海岸を標的とし、大筒の場合は沖合に浮かぶ烏帽子岩（えぼしいわ）も標的とされました。「角打」は鵠沼海岸で行われる近距離での精密射撃訓練で、発射地点から着弾地点までの距離を細かく測定しました。「船打」は地元から借り上げた漁船などを用い、波に揺れる船上での射撃技術を磨く訓練でした。「下ケ矢」は片瀬村にある駒立山（こまだてやま）のような高台から下方へ射撃する訓練でした。

廃止後の変遷

明治元年（1868年）に江戸幕府が終わりを告げるとともに、相州炮術調練場もその役割を終え、廃止されました。しかし、その広大な跡地は近代以降、大きくその姿を変えながら活用されていきました。

境川と引地川に挟まれた鵠沼村南東部のかつての訓練区域の一部は、明治時代に日本で最初期とされる別荘分譲地「鵠沼海岸別荘地」として開発が進められ、多くの文化人や著名人が集まる別荘地として発展しました。

一方、辻堂村西部にあたる調練場跡地は、後に大日本帝国海軍の施設へと転用され、「横須賀海軍砲術学校辻堂演習場」が置かれました。第二次世界大戦終結後、この海軍演習場は連合国軍、特に在日米海軍に接収され、「在日米海軍辻堂演習場」となりました。朝鮮戦争が勃発した際には、この地で大規模な敵前上陸訓練が行われたことでも知られています。この米軍演習場が日本へ全面返還されたのは、戦後しばらく経った1959年（昭和34年）のことです。

返還された旧演習場跡地には、高度経済成長期に建設された日本住宅公団による大規模団地である辻堂団地をはじめ、湘南工科大学、松下政経塾といった教育・研究施設、そして広大な神奈川県立辻堂海浜公園などが建設され、現代の藤沢市・茅ヶ崎市を形成する上で重要な地域となりました。また、かつては訓練区域を避けていた国道134号線が海岸線沿いに整備されるなど、交通インフラも大きく変化しました。相州炮術調練場が存在した海岸線は、江戸時代の軍事訓練の場から、近代以降の別荘地、軍事施設、そして現代の住宅地や公共施設、レジャーの場へと、時代の変遷とともに多様な顔を持つに至ったのです。

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