1964年の文学

1964年の文学界：ベストセラー、新鋭、そして惜別

1964年（昭和39年）は、日本の文学界にとって、新たな才能の登場や記念碑的な出版企画、そして多くの著名な作家・詩人との別れなど、多様な動きが交錯した一年となりました。

年の初め、大島みち子さんの『若きいのちの日記』（大和書房）が世に出ると、その誠実な筆致と内容が多くの読者の共感を呼び、この年の年間ベストセラー総合ランキングで上位に躍り出るほどの大きな反響を呼びました。これは、社会的なテーマや私小説といった従来の枠にとどまらない、等身大の感情を綴った作品が広く受け入れられるようになった一例と言えるでしょう。

文壇の動きとしては、中央公論社が『日本の文学』全80巻という壮大なスケールの全集刊行プロジェクトを開始したことが注目されます。谷崎潤一郎、川端康成、伊藤整、高見順、三島由紀夫、大岡昇平、ドナルド・キーンといった、当時の文学界を代表する錚々たる顔ぶれが編集委員に名を連ね、日本の近代文学を網羅する画期的な企画として、1970年まで刊行が続けられました。一方、文学団体の内部では軋轢も生じました。新日本文学会では、第11回大会において活動報告を巡る議論が紛糾し、大会後に江口渙、霜多正次、西野辰吉、津田孝の四氏が除籍されるという事態が発生、組織内部の対立が露呈しました。

文学賞では、権威ある芥川龍之介賞と直木三十五賞が年二回選考されました。1963年下半期（第50回）の芥川賞は田辺聖子さんの『感傷旅行』が受賞。直木賞は安藤鶴夫さんの『巷談本牧亭』と和田芳恵さんの『塵の中』が選ばれました。続く1964年上半期（第51回）の芥川賞は柴田翔さんの『されどわれらが日々──』が受賞し、若い世代の感性が評価されました。しかし、直木賞はこの回、該当作なしという結果に終わりました。その他の国内文学賞では、野上弥生子さんの歴史小説『秀吉と利休』が女流文学賞を受賞、三島由紀夫さんは小説『絹と明察』で毎日芸術賞を受賞するなど、大家の円熟した創作活動も高く評価されました。国外では、フランスの哲学者・作家であるジャン＝ポール・サルトルがノーベル文学賞に選ばれましたが、彼はその受賞を辞退するという異例の行動を取り、世界の文学界に衝撃を与えました。

この年発表された注目すべき作品も多数あります。安部公房氏は、人間の存在の不確かさを描いた『他人の顔』やSF的な『水中都市』、不条理劇『無関係な死』といった意欲作を次々と発表しました。小松左京氏も、スケールの大きなSF小説『日本アパッチ族』を光文社から刊行。中井英夫氏のミステリー小説『虚無への供物』（講談社）も、その斬新な構成と世界観で後世に大きな影響を与えました。また、三島由紀夫氏は小説『肉体の学校』や『喜びの琴』、評論集『私の遍歴時代』などを出版し、作家として精力的に活動しました。さらに、彼は東京オリンピックの毎日、朝日、報知の三社合同特派員記者として、大会の模様を文章に綴るというユニークな仕事もこなしました。

一方で、1964年は文学界から惜しまれつつ去った人々も少なくありませんでした。日本の文壇では、尾崎士郎氏（小説家）、辰野隆氏（フランス文学者）、三好達治氏（詩人）、佐々木邦氏（小説家・英文学者）、三木露風氏（詩人・童謡作家）といった、それぞれの分野で大きな足跡を残した作家や学者が永眠しました。海外にも目を向けると、『沈黙の春』で環境問題の重要性を世界に知らしめたアメリカの生物学者・著述家レイチェル・カーソン氏や、『007』シリーズを生み出したイギリスの人気小説家イアン・フレミング氏が、この年にその生涯を終えました。

1964年は、ベストセラーの誕生に象徴される読書界の広がり、芥川賞に代表される新人作家の台頭、大型企画の始動、そして多くの才能との別れが同時に起こった、まさに時代の転換点とも言えるような文学の年でした。

もう一度検索