スペイン黄金時代美術

スペイン黄金時代美術とは、レコンキスタ完了期から1700年のハプスブルク家支配終了までの時期の美術の流れを指します。特に17世紀のバロック絵画において、「陽の沈まぬ帝国」を築いたスペインの美術は、その独自性と豊かさから特筆されます。

前史：1516年まで

1492年のレコンキスタ完了後、イサベル1世とフェルナンド2世による絵画のパトロネージュが始まります。しかし当時のスペインは、美術の中心であったイタリアの諸都市に匹敵する環境にはなく、審美眼も未発達でした。相次ぐ戦争やイスラム支配による絵画芸術の伝統の断絶などから、外国の芸術家を招聘することで後進性を補おうとします。フランドル出身のミケル・シトーやフアン・デ・フランデスらが宮廷に仕え、北方ルネサンスの様式を導入しました。また、ペドロ・ベルゲーテのようにイタリアで学び、イタリアの表現や技法をスペインに導入した画家も現れます。宮廷以外でも、バレンシアではパオロ・ダ・サン・レオカディオやフェルナンド・イェーネス・デ・ラ・アルメディナ、バルセロナではペドロ・フェルナンデス、セビリアではアレホ・フェルナンデスらが活躍しました。これらの画家たちは、フランドル派とイタリアルネサンス絵画から貪欲に学び、その後のスペイン美術の強固な基盤を築きました。しかし、スペインでは宗教画が主流であり、純ルネサンス的な絵画はあまり流行しませんでした。

陽の沈まぬ帝国：1598年まで

カルロス1世（神聖ローマ皇帝カール5世）とフェリペ2世の時代は、スペインが空前の大帝国を築いた絶頂期でした。この時期にはマニエリスムが導入され、アロンソ・ベルゲーテやペドロ・マチューカらが活躍しました。ベルゲーテはミケランジェロから彫刻を学び、マニエリスム様式をスペインに導入しました。マチューカはラファエロの工房で働いた経験を持ち、建築家としても才能を発揮しました。この時代には、ハプスブルク家による美術品の収集が進み、王室コレクションが形成されました。カルロス1世はティツィアーノを重用し、彼の作品はスペインの画家に大きな影響を与えました。フェリペ2世の時代には、イタリアの版画が普及し、スペイン絵画のイタリア志向が強まります。ルイス・デ・モラレスは「聖なるモラレス」と称され、宗教的な主題を描きました。アロンソ・サンチェス・コエーリョはティツィアーノの作風を学び、肖像画家として活躍しました。エル・エスコリアル宮殿の装飾には、フェデリコ・ズッカリやペッレグリーノ・ティバルディなどの外国の画家も参加しました。

エル・グレコ

エル・グレコは、フェリペ2世の時代に活躍した後期マニエリスムの代表的な画家です。本名ドメニコス・テオトコプーロスは、ビザンティン美術の伝統を受け継ぎ、ヴェネツィア派の絵画に傾倒し、独自の画風を確立しました。スペインでは評価されなかったものの、トレドを中心に活動し、独自の様式を確立しました。『オルガス伯の埋葬』は彼の代表作です。彼の奇抜な構成は、晩年にはバロック絵画の隆盛により忘れ去られましたが、20世紀に再評価され、スペイン美術の巨匠の一人となりました。

帝国の斜陽：スペイン・バロックの萌芽　1621年まで

フェリペ3世の時代には国力が衰退し、寵臣政治が横行しました。レルマ公爵は美術のパトロンとして活躍し、イタリア人画家のバルトロメ・カルドゥッチョや、その弟ビセンテを庇護しました。しかし、当時のバロック的な表現はまだ受け入れられませんでした。旧都トレドでは、フアン・サンチェス・コターンやフアン・バウティスタ・マイノらが活躍し、特にコターンは静物画の伝統を築き上げました。バレンシアではフランシスコ・リバルタが、セビリアではフランシスコ・パチェーコが活躍しました。これらの画家たちが、次世代の偉大な画家たちの土台を築きました。

黄金時代：1640年まで

フェリペ4世は美術を愛し、多くの画家を庇護しました。

ディエゴ・ベラスケス (1)

ディエゴ・ベラスケスは、セビリア出身で、パチェーコに師事しました。初期にはボデゴン（厨房画）を描きましたが、その高い技術力から宮廷に招かれました。1623年にフェリペ4世の肖像画を描き、宮廷画家としての地位を確立しました。ルーベンスとの交流やイタリア留学を経て、独自の様式を確立しました。『ブレダの開城』は彼の代表作の一つです。宮廷画家として、王室コレクションの管理や画家の招聘など様々な業務を行いました。ベラスケスは、宮廷画家でありながら宗教画は比較的少なく、肖像画や神話画を多く描きました。

フランシスコ・デ・スルバラン (1)

フランシスコ・デ・スルバランは、エストレマドゥーラ地方出身で、セビリアで活動しました。劇的な明暗対比と静かな構図が特徴的で、『十字架上のキリスト』や『聖ペドロ・ノラスコに現れる聖ペテロ』などの作品で知られます。マドリードにも招かれましたが、戦争画は得意ではありませんでした。自らのスタイルを重視し、前例のない図像を生み出しました。宗教画のほか、肖像画や静物画も手掛けました。ナポリのリベラの影響を受け、表現を多様化させました。

アロンソ・カーノ

アロンソ・カーノはグラナダ出身で、セビリアでベラスケスと同じくパチェーコに師事しました。彫刻も学び、古典的な雰囲気を持つ作品を制作しました。スルバランとはライバル関係にありました。ベラスケスの招きでマドリードに移り、独自の絵画で地位を確立しました。

ホセ・デ・リベラ

ホセ・デ・リベラはバレンシア近郊出身で、北イタリアやローマで学び、カラヴァッジョの影響を受けました。ナポリで活動し、劇的な明暗法や迫力ある筆致で知られます。エッチングにも長け、広範な影響を与えました。『デモクリトス』は彼の代表作です。ルーベンスやヴァン・エイクらの作品からも学び、自作の表現を多様化させました。

爛熟期：1640年以降

スペインは苦難の時代を迎えましたが、巨匠たちが活躍しました。

ディエゴ・ベラスケス (2)

ベラスケスは、相次ぐ戦争の中でも宮廷画家の仕事を全うしました。ティツィアーノやルーベンスを研究し、より成熟した作品を創り上げました。『ヴィーナスとキューピット』では、珍しい女性裸体が描かれています。イタリアへの再訪で、教皇インノケンティウス10世の肖像を描き、その名声を確立しました。『ラス・メニーナス』は彼の晩年の傑作です。1660年に死去するまで、精力的に作品を制作しました。

ベラスケスの影響

ベラスケスは寡作であり、その影響は主に宮廷に近い画家に限定されました。アロンソ・カーノはベラスケスの影響を受け、柔らかな色彩表現へと変化しました。フアン・マルティネス・デル・マソは、ベラスケスの弟子で、風景画にも挑戦しました。

ルーベンスの追従者たち

ルーベンスの絵画は、この時代の画家たちに大きな影響を与えました。フランシスコ・リシやフアン・カレーニョ・デ・ミランダらはルーベンスの作品を研究し、迫力ある作品を残しました。特にリーシとカレーニョは共同でフレスコ画を制作しました。

フランシスコ・デ・スルバラン (2)

スルバランは、セビリアの衰退とともに経済的に困窮し、その厳格な様式は時代遅れとされました。ムリーリョの登場により、その地位を失い、失意のうちに亡くなりました。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ

ムリーリョは、セビリア出身で、当初は自然主義的な作品を作っていましたが、ルーベンスの影響を受けたエレーラの作品を学び、柔和な色彩表現を編み出しました。フランシスコ会修道院の装飾で名を馳せ、セビリアを代表する画家となりました。柔和で優し気な人物像が人気を博し、『乞食の少年』や『無原罪の御宿り』などの作品で知られます。フアン・デ・バルデス・レアルとの切磋琢磨により、その画業を磨き上げました。1660年代には、ムリーリョの名声はヨーロッパ中に広まり、特にイギリスで高く評価されました。

フアン・デ・バルデス・レアル

バルデス・レアルは、セビリア出身で、ムリーリョとは対照的な、劇的で生々しい表現を追求しました。カルモーナの修道院装飾で名を上げ、強烈な表現で知られます。「死の寓意」の連作は、ヴァニタスの発露としてバロック絵画の典型とされます。ムリーリョとともにセビリアで美術アカデミーを創設する運動を起こしました。

終焉

1664年にフェリペ4世が亡くなり、カルロス2世の時代には国力がさらに衰退しました。画家たちは前時代の模倣に終始し、市場も縮小しました。この時期に注目されるのはクラウディオ・コエーリョで、エル・エスコリアル宮の装飾を手掛けました。1700年にカルロス2世が亡くなり、スペイン・ハプスブルク朝は断絶しました。アントニオ・パロミーノは、黄金時代の画家の評伝をまとめた『絵画美術館と視覚規範』を著し、この時代を締めくくりました。

参考文献

Jonathan Brown, The Golden Age of Painting in Spain, Yale University Press. 1991.
松井美智子解説「リベーラとバレンシア派」- 『世界美術大全集西洋編16 バロック1』小学館、1996。
大高保二郎解説「ベラスケスとマドリード派」- 『世界美術大全集西洋編16 バロック1』小学館、1996。
『スペイン絵画・ベラスケスとその時代展カタログ』毎日新聞社、1980。
大野芳材、中村俊春、宮下規久郎、望月典子『西洋美術の歴史6　17～18世紀バロックからロココへ』中央公論新社、2016。

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