前賢故実

『前賢故実』とは

『前賢故実』（ぜんけんこじつ）は、江戸時代後期から明治時代にかけて刊行された、菊池容斎による伝記集です。全10巻20冊からなり、上古から南北朝時代（後亀山天皇の時代）までの皇族、忠臣、烈婦など585人の歴史上の人物を、時代順に肖像画として描き、それぞれの人物に漢文で略伝を付しています。

この作品は、日本の歴史上の人物を視覚化したものとして画期的であり、特に明治中期以降、国家意識の高まりとともに盛んに描かれた歴史画において、重要な典拠となりました。いわば、歴史画のバイブルとしての役割を果たしたと言えるでしょう。

成立と特徴

『前賢故実』の制作は、文政初年（1818年）に始まり、明治元年（1868年）に完成したとされています。ただし、天保7年（1836年）には一部が完成しており、中心的な制作時期は文政・天保期と考えられています。初版は天保14年（1843年）に2巻4冊が刊行されましたが、経済的な理由から全巻刊行は遅れ、明治元年にようやく完成しました。

当初、神武天皇以降の朝廷を中心とした構成となっており、容斎は考証の巻を設ける構想もあったようです。明治36年（1903年）には、容斎の孫である菊池武九や山下重民によって、有職故実の考証1巻が付加され、『考証前賢故実』として再刊されました（全11巻）。

制作にあたっては、中国の人物画伝である上官周の『晩笑堂画伝』などの影響が見られます。また、『集古十種』などから多くの図様を援用しているほか、過去の肖像画を参考にした例もあります。しかし、容斎は単に過去の図様を模倣するだけでなく、モデルにポーズを取らせて描くなど、写実的な表現にもこだわりました。弟子の証言によれば、人体モデルを用いた写生会も行い、骨格研究にも力を入れたといいます。

さらに、時代考証にも深く取り組み、10巻末には「前賢故実図徴引用書目」と題した参考資料目録があります。『古事記』『日本書紀』といった歴史書から、『源氏物語』『古今和歌集』などの文学書、絵画資料まで、264件もの史料が挙げられています。また、東京国立博物館所蔵の『前賢故実』には、参考にした古器旧物のスケッチが添付されており、図中の装束や所持品の典拠がわかるようになっています。

嘉永3年（1850年）には、特製本の『前賢故実』が孝明天皇に天覧され、明治元年には、版刻本が明治天皇に献上されました。これらの功績により、容斎は明治8年（1875年）に明治天皇から「日本画士」の称号を賜りました。

美術史における影響

『前賢故実』は、明治期の美術、特に歴史画において、図像の典拠や有職故実の教科書として非常に大きな影響を与えました。現代の研究から見ると誤りも指摘されますが、故実研究に基づいた新たな歴史画の方向性を示した功績は大きいと言えるでしょう。

有職故実の研究家で画家でもあった関保之助は、「当時の歴史画家で『前賢故実』を学ばぬ者は恐らく一人もいない」と回想しています。容斎の門下である松本楓湖や渡辺省亭、鈴木華邨はもちろんのこと、橋本雅邦や小堀鞆音といった日本画家たちも、その図柄を参考に作品を制作しました。

また、容斎に私淑した梶田半古は、弟子たちに『前賢故実』を模写させることで、前田青邨や小林古径といった優れた歴史画家を育てました。

さらに、『前賢故実』は浮世絵にも影響を与えました。月岡芳年は、早くも慶応3年（1867年）から図様を取り入れ、『大日本名将鑑』『本朝智勇仁英勇鑑』『月百姿』など、多くの作品で『前賢故実』を参考にしました。芳年は、容斎のやや謹直な歴史画をダイナミックな構図と色彩でアレンジし、より迫力のある画面に仕上げました。芳年の弟子である水野年方や右田年英、同時期の小林清親や尾形月耕らの作品にも、『前賢故実』の影響が見られます。

その他、洋画や彫刻の分野にも影響が見られ、本多錦吉郎や石井鼎湖らの歴史画や、佐野昭作の彫刻「可美真手命像」にもその影響が認められます。

教育の分野では、『幼学綱要』や『高等小学歴史』といった教材にも、『前賢故実』を典拠とした人物像が用いられ、近代日本の国民教育にも利用されました。

しかし、明治30年代後半になると、それまで隆盛を誇った『前賢故実』も時代遅れになっていきます。今村紫紅、安田靫彦、前田青邨、小林古径ら次代を担う画家たちは、西洋の芸術観を取り入れ、画家の個性を重視するようになり、『前賢故実』は次第に顧みられなくなりました。

『前賢故実』は、日本の美術史において、歴史画の発展に大きな影響を与えた重要な作品であり、近代日本の文化を理解する上で欠かせない存在と言えるでしょう。

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