春秋経伝集解

『春秋経伝集解』：古代中国の古典解釈における金字塔

『春秋経伝集解』は、中国古典の研究において極めて重要な注釈書です。西晋の著名な学者、杜預（字：元凱、222-284年）によって編纂された本書は、『春秋左氏伝』（以下『左伝』）に対する詳細な注釈を提供しており、単に「左伝注」や「杜注」とも呼ばれています。現存する最古の完全な『左伝』注釈書として、現代に至るまで『左伝』研究に多大な影響を与え続けています。

成立と背景

『春秋』は孔子が編纂したとされる魯国の歴史書で、その解釈には『公羊伝』『穀梁伝』『左氏伝』の三種類が存在しました。前漢時代は『公羊伝』と『穀梁伝』が主流でしたが、『左伝』は前漢末期以降、劉歆らによって重視されるようになり、後漢時代には活発な研究が展開されました。賈徽の『左氏条例』、賈逵の『春秋左氏解詁』、許淑、穎容らの研究が積み重ねられ、服虔の『春秋左氏伝解誼』は特に名高い注釈書となりました。魏の時代には王粛、董遇らも注釈書を著しましたが、これら杜預以前の注釈書は全て散逸してしまいました。

杜預は魏・西晋の学者で、司馬昭の妹婿でもありました。その家系には『左伝』に造詣の深い人物が多く、祖父の杜畿は『左伝』学者である楽詳を育て、叔父の杜寛も『春秋左氏伝解』を著しています。杜預自身も楽詳から『左伝』の学を受け継ぎ、「左伝癖」と称するほどの熱心な研究者でした。

杜預は、先行研究の成果を踏まえつつ、独自の解釈を加え、『春秋』経文と『左伝』を一体的に理解できる体系を構築しました。特に、281年に発見された汲冢書（戦国時代の竹簡）の研究成果も取り入れようとしたものの、既に『春秋経伝集解』の執筆が完了していたため、直接的な影響は限定的でした。

杜預の注釈方法と『春秋釈例』

杜預は、先行研究を批判的に評価しつつ、自らの注釈における独自の立場を明確に示しています。従来の注釈に満足せず、『左伝』に基づいた新しい『春秋』解釈を確立しようと試みました。ただし、賈逵、服虔らの先行研究や『爾雅』『説文解字』などの古典籍も積極的に活用しており、既存の研究成果を完全に無視したわけではありませんでした。

『春秋経伝集解』の執筆にあたっては、地名や人名の比定、系図の作成、暦日の検証など、綿密な基礎作業が行われました。杜預は『春秋』と『左伝』の記述規則を分析し、「春秋の筆法」という独自の解釈体系を構築しました。この研究方法は当時としては非常に精密であり、現代の歴史研究においても高く評価されています。

『春秋経伝集解』と同時に、『春秋釈例』も著されました。これは『左伝』から『春秋』の解釈に関連する部分を抽出し、『春秋』解釈の原理を説明したものです。現存する『春秋釈例』は輯佚書（散逸した文献を収集・編纂したもの）です。

『春秋経伝集解』の特徴

『春秋経伝集解』は、以下の特徴的な体裁をとっています。

経伝相付型: 『春秋』経文と『左伝』の本文を一年ごとに対応させて配置。これは魏の王弼が『易経』で試みた手法の発展形です。
経伝密着型: 杜預の注釈は経文・伝文に密着した形で記述されています。
序文: 本書には杜預による序文があり、原典の成立経緯、注釈の歴史、自身の注釈作成の動機などが述べられています。

杜預の学説

杜預注の最大の特徴は、「伝文主義」に基づいている点です。従来の注釈は『公羊伝』や『穀梁伝』の解釈に依存していましたが、杜預は『左伝』を重視し、独自の義例説（『春秋』を解くための法則）を提示しました。

杜預の義例説は、「凡例」「変例」「非例」の三つに分類されます。「凡例」は周公以来の伝統的な礼法、「変例」は孔子の新しい解釈、「非例」は単なる事実の記述です。杜預は、『春秋』の記述の大部分は「非例」であり、「史実を記した書」としての側面が強いと主張しました。また、孔子が「素王（位なき王者）」であったとする従来の説を否定し、孔子が周代の制度・文化の復興を目指していたと解釈しました。

杜預は、西晋で議論となっていた「諒闇心喪」の問題にも関与し、古制と現実の政治の両立を図る独自の解釈を提示しました。

後世への影響

『春秋経伝集解』は、『春秋』三伝の争いに終止符を打ち、『左伝』が優位に立つことを決定づけました。唐代には『五経正義』において、『春秋』の注釈として杜預注が採用され、約千年間、杜預の解釈が標準的なものとなりました。日本でも律令制下で杜注が重視され、江戸時代には秦鼎、安井息軒らによって新たな研究が展開されました。

参考文献

岩本憲司『春秋左氏傳杜預集解』汲古書院
鎌田正『春秋左氏伝』明治書院
川勝義雄『史学論集』朝日新聞社
* 古勝隆一『中国中古の学術』研文出版

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